子を亡くした母親の話は、涙なしには読めない

自分が大けがをした話もつらいが、子どもを亡くした体験談も、涙なしには読めない。

当時、帯屋町に住んでいた38歳だった女性には、小さい子どもが7人いた。1歳から16歳まで五男二女。高知市が空襲されるようになり、夫が疎開先を見つけてきて明日には出発しようという夜に、大空襲に遭った。

「主人は三男(6歳)を自転車にのせ、私は五男(1歳)を背負い、長女(16歳)が四男(4歳)を背負い、長男(14歳)、次女(12歳)、次男(9歳)の三人はそれぞれ走ることにしました。出発のまぎわ、主人が『決して、うしろを振りかえってはいかん。前に進むことよりほかは考えるな』と、みんなに言って出ました。」

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「長男をどうしても助けることができずに、捨てて逃げた」

女性は先に進んでいた夫に再会し、「長男が焼夷弾でやられて倒れているのを、どうしても助けることができずに、捨てて逃げてきた」と言うと、「そうしなければ、みんな焼け死んでしまったから仕方がなかったんだ」と励まされた。

結局、長男は焼死、同じく火傷した次男も病院に運ばれたが死亡、次女も火傷から破傷風を起こして死亡、長女が連れて逃げた四男も頭を強く打って死亡した。

「七人の子のうち四人までを空襲で奪われてしまいました。ある人が私に『子どもを何人も亡くして、よう生きのびられてきた』と申しましたが、私には一歳の乳飲み子を含めて、三人の子がいますもの、この子らのためにも生きていかねばならない――こう思うて、苦しいこともじいーっとガマンして、今日まで生きて参りましたんです」
『ここも戦場だった 145人が語る高知大空襲』(高知新聞社)

朝ドラで描かれる空襲の場面が、戦争の恐ろしさを実感させる

この女性のように、この夜、高知で子どもを失った母親はたくさんいた。焼夷弾の雨で街全体が火事になったので、市民の多くは中心部を流れる鏡川に逃げ込んだが、川の中にもB29が容赦なく「1メートルごとに」焼夷弾を降らせたという証言がある。