「結局は炎上マーケティングである」との批判
反「野球害毒論」、アンチ東京朝日の急先鋒に立ったのは、やはり押川春浪と天狗倶楽部、そして早稲田野球部部長の安部磯雄だった。春浪と安部は東京朝日新聞のライバル紙である東京日日新聞(現在の毎日新聞)や読売新聞で朝日の野球害毒論批判を展開した。
2人の朝日に対する反論は『野球と学生』という本にまとめられている。押川春浪の「学生界のために弁ず」は、東京朝日の「野球害毒論」の事実誤認や曲解を逐一指摘しつつ、朝日新聞の意図を以下のように読み解いている。
東京朝日新聞がなぜこのような愚かな行動に出たのかというと、その理由は、彼らが販売部名義で行った広告からもわかるように、自社の新聞を売るためにほかならない。それは決して学生たちに対する誠意や同情からではなく、単に自分たちの勢力を頼みに、世間の学生やその保護者を驚かせ、ある意味では威嚇して、一部でも多く新聞を売ろうとしたからである。(中略)朝日新聞が「野球とその害毒」という題名の記事で、野球の利点をすべて無視し、わずかな弊害を大げさに取り上げて、まるで野球がペストのような危険な存在であるかのように撲滅すべきだと叫んだのは、さまざまな理由があったにせよ、要するに野球が当時最も流行しており、世間の注目を集めていたからである。その注目を悪口や中傷で刺激し、世間の好奇心を引き起こして、自社の新聞の影響力を示そうとした以外の理由はないのである。
(押川春浪「学生界のために弁ず」〈『野球と学生』〉を筆者が現代語訳)
不買運動が打撃になり連載は中止に
要するに、春浪は東京朝日の野球害毒キャンペーンを「結局は炎上マーケティングである」と批判したのである。さらに彼は、東京朝日の「野球選手は勉強という学生の本分を怠っている」という批判に対し、「野球部OBたちは官吏、軍人、実務家として優秀だと評判になっている」とした上で「現代社会はペーパーテストで優秀な者と同じかそれ以上に、ビジネスマンとして優秀な手腕、人格、体力を備えたスポーツ選手を求めている」と反論した。
これは現代人から見ると言いすぎにも思えるが、この騒動の少し後の1920年前後から「社会で活躍している学卒者にスポーツ選手出身が多い」という事実が実業界で注目されるようになり、〈体育会系〉出身者に対する企業からのニーズが非常に高まっていったことから、少なくとも1911年時点での春浪の評価は的を射ていたことになる。さらに、読売新聞の後援のもと天狗倶楽部による「野球問題演説会」も開催され、押川春浪、中沢臨川、吉岡信敬、河野安通志、さらには安部磯雄も登壇し、会場に入り切らないほどの人を集めた。この演説会では東京朝日新聞に対する不買運動が決議され、一般民衆にまで広がった。新聞にとって不買運動はかなりの打撃であり、結局「野球害毒論」連載は22回で中止され、表面的には天狗倶楽部の勝利で終わったかに見えた。
現代から見ると奇妙なのは、ここまで激烈な野球批判を展開した朝日新聞が、今では高校野球を主催する側に回っていることである。