なぜ朝日新聞が高校野球を主催するに至ったか

 もともと朝日新聞は1879年に大阪で創刊され、1888年に東京の「めさまし新聞」を買収し「東京朝日新聞」と改題し、これを東京版と位置づけていた。大阪朝日の1915年時点での発行部数は25万部で、東京朝日の1・5倍と、どちらかといえば大阪がメインの新聞だったのである。

 東京朝日が野球害毒論キャンペーンを張るなかで、大阪朝日は「東京ではこういう論争がある」ということを紹介するにとどめていた。しかし東京朝日の「野球害毒論」は炎上マーケティングとして失敗だったどころか、「朝日ブランド」の信用力を下げてしまった。この失敗をカバーするために大阪朝日が思いついたのが、「ならば自分たちが良い野球の模範となるような大会を開催すればいい」というアイデアだった。

 当時、京都の第三高等学校の野球部員が京都市~大津市エリアの中学校で野球大会を企画するなど、中学校での野球熱が高まっていた。また、現在の阪急電鉄にあたる「箕面有馬電気軌道」の社員が、自社沿線で保有する運動場「豊中グラウンド」でのスポーツ大会開催を企図していた。大阪朝日はこれらの機運を活用し、関西で中学野球の全国大会を企画したのである。人気が高まっている野球を批判して部数を稼ぐのではなく、その力を活用し、しかも「現場の野球人たちには任せておけないから我々が学生野球を『善導』する」というスローガンのもと、新聞の販売拡大につなげようと考えたのだ。

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小林一三 ©文藝春秋

 当時の関西は好景気で、大阪の中心部から南のエリアでは住宅需要が逼迫し、工場の乱立とともに衛生環境も悪化していた。そこで、まだあまり開発されていなかった梅田より北の郊外に鉄道や住宅を建設すべく事業を開始したのが、のちに阪急グループの創始者として知られる小林一三率いる箕面有馬電気軌道だった。小林は鉄道、近代的住宅、電気、水道などと合わせて、箕面に動物園、温泉地・宝塚に宝塚歌劇団などのエンタメ産業を次々に興していった。豊中グラウンドは野球だけでなく陸上やサッカーなど各種大会を開催するための場所だった。大阪朝日の全国大会企画は、小林率いる箕面有馬電気軌道の「鉄道の乗客を増やしたい」「豊中グラウンドを活用してほしい」というニーズとも合致するものだった。

「礼にはじまり礼に終わる」を導入したのは朝日

 こうして現在の夏の甲子園の前身となる「全国中等学校優勝野球大会(優勝大会)」は1915年、第1回大会が豊中グラウンドで開催され、始球式は朝日新聞社長の村山龍平が行った。4年前に野球排撃を行っていた朝日が中学野球の全国大会を主催するというのだから、そこにはアクロバティックな論理が必要とされるが、そこで持ち出されたのは「善導」ともいうべきものだった。

 メジャーリーグや日本プロ野球にない、日本の学生野球や草野球独特の儀礼が、試合前と終了後にホームベースで整列と礼をする慣習である。これは第1回優勝大会に際して、朝日新聞社が野球を武士道的なものにすべく、「礼に始まり礼に終わる」武道のやり方をわざわざ導入したのが最初である。

 大阪朝日は第1回大会以降、紙面上でも中学野球の「指導」を熱心に行った。それは一高的な「武士道野球」を基調とし、野球害毒論争を意識して(表面的には)商業化や華美化に対して徹底的な「自主規制」を行う、というものだった。

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