女子野球は明治末期からプレーされていた

 女子野球は明治末期から女学生・女子生徒のあいだでプレーされるようになった。当時の女子一般にとって本格的な野球は、硬いボールを重いバットで打つことから身体的負担が大きいとされ、当初は投手がテニス用のゴムボールをホームベース手前の地面に描かれたボックスめがけてワンバウンドさせ、打者がホームベース付近でテニスラケットで打つというものだった。

 また、日本独特の規格である「軟式球」の登場も重要である。京都では明治末から大正にかけて小学生のあいだでテニスボールやスポンジボールを使った野球が広がっており、そのなかで京都市第一高等小学校の教諭や文具商らがゴムマリ野球の研究会を立ち上げ、1917年にゴムマリ野球のルールブックを刊行、ボールの規格も定めてゴム会社が製造を担当、1919年にこのボールを用いた野球大会が始まった。このボールが軟式球と呼ばれるようになる。

 この軟式球を用いた野球(軟式野球)は男子だけでなく女子のあいだでも広がり、1910年代後半から20年前後にかけて愛媛県の今治高等女学校などで軟式野球がプレーされるようになった。

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「インドアベースボール」と「キッツンボール」

 一方、この時期には女子の軟式野球とはやや異なる「インドアベースボール」というスポーツも日本でプレーされるようになった。インドアベースボールは1887年にアメリカで考案されたスポーツで、大きめのボール、細めのバット、下手投げにすることで、ボールの飛距離を抑え、室内でもプレーできるようにしたものだった。手軽で危険が少ないことからアメリカの女性のあいだで広がり、名前とは裏腹に室外でプレーされることも多くなって、現在のソフトボールになったのである。

 インドアベースボールは当時アメリカの植民地だったフィリピンに1910年代に伝わって、現地のYMCAを中心に女性たちのあいだで流行し、その余波は中国・上海、そこから北上して北京、満洲エリアの奉天(現在の遼寧省瀋陽市)、ハルビン(黒龍江省)、さらにはすでに日本が権益を持っていた大連にまで伝わった。インドアベースボール普及のハブになったのは東アジア各地のYMCAであり、やがて神戸や長崎、東京のYMCAを経由して日本内地へも伝えられ、各地の高等女学校でもプレーされるようになった。また、インドアベースボールよりもややボールが軽く小さく、塁間も長いため野球により近い「キッツンボール」という競技もアメリカで考案され、日本の高等女学校で実践されるようになった。