入部希望者73人、朝8時から猛練習
福岡県の直方高等女学校(現在の福岡県立直方高校)では教諭が1922年に女子生徒にキャッチボールを教え始め、隣接する小学校チームと対戦してみたところ大敗。校長・教頭が女子生徒の運動能力の低さに呆れ果てた結果、なぜか野球部新設が決まった。「技量が低いので野球は女子に不向きである」と判断するならまだしも、直方高女の校長・教頭は「野球部をつくって鍛えねば」と発想したらしい。
部員を募集したところ入部希望者が73人も集まり、そこから選手を選抜して、夏休みに3週間、午前8時から午後3時までの厳しい練習が行われた。そうして練習で実力を養成した直方高女は小学生の野球大会に出場し、なんと優勝してしまう。『大正野球娘。』でも最初は小学生チームを相手に戦っていたが、「実力が足りていないので年下の大会に出る」という発想はなかなか斬新である。
こうして大正後期には日本各地の高等女学校で女子野球が急速に盛り上がったが、良妻賢母教育が一般的だった当時の社会からは大きな非難の声に晒される。たとえば女子が果断にスライディングで塁に滑り込む姿が「お転婆である」と言われたり、打者がガニ股でバットを持って打席に立ったり、捕手が開脚して座り込み投手のボールを受ける姿が「女らしくない」「女性が男性化してしまう」などと批判され、排撃されたのである。小学生大会で優勝という快挙を成し遂げた直方高女野球チームも、最終的に福岡県知事の命令により解散させられてしまった。社会からの有形無形のプレッシャーにより、盛り上がりつつあった女子野球は1925年頃を境に急速に萎んでしまう。1911年の野球害毒論争のような事態が、女子野球においては1920年代前半に起こっていたのだ。
100年前のおじさんは女子野球のために立ち上がっていた
30年代以降は特に女子向けのスポーツとして、野球やインドアベースボールではなくテニス、バレーボール、バスケットボールが奨励された。野球系のスポーツとしてはインドアベースボールだけが「女子に適したスポーツ」として生き残りを許容され、対校試合は行わず、校内競技として細々と続いていったようである。
ただし、大正期の女子野球をめぐる状況には注目すべき点もある。たとえば直方高女野球チーム解散事件に際し、野球界のオピニオンリーダーであった飛田穂洲は「暴虐に虐げられた直方高女野球チーム」という記事を雑誌『運動界』(1923年3月号)に寄稿、激烈な批判を加えている。また、やはり野球界のオピニオンリーダーの一人であった横井春野(女性ではなく男性である)も、女子野球擁護の論陣を強力に張り続けた。第2章で述べたように現代の「野球好きのおじさん」たちは高校野球の女人禁制を貫こうと頑張っているが、対照的に100年前の「野球好きのおじさん」たちは女子野球のために立ち上がっていたのだ。
大正末期の1925年は、悪名高い治安維持法が制定された年として知られる。労働争議が頻発し、東アジア国際情勢も悪化の一途を辿るなかで、大正の自由な空気は沈んでいき、来たるべき総力戦に備えて性別役割分業の再固定化も始まりつつあった。せっかく盛り上がった女子野球も、窮屈になりつつある世相のなかで、しだいに活気を失ってしまう。当時の女子野球事情は現代よりもダイバーシティがあったともいえるが、その反面として抑圧も強烈なものとなっていた。
