当初の建設費用「955億円」から借金が3倍以上に膨れた理由
東葉高速鉄道の建設計画が浮上したのは1974年。「営団地下鉄第5号線」(東京メトロ東西線の前身)の延伸区間として、建設費用の想定は「955億円」、最終的にかさむこととなる費用の3分の1以下に収まっていた。この時期に開通が叶っていれば、営団の資金負担も引き出せる上に、料金体系も営団準拠だったはずだ。
しかし、当時の営団地下鉄は営業エリアを「東京都ノ区ノ存スル区域及其ノ附近」(帝都高速度交通営団法・1941年公布)と定められており、東京都区および“其ノ附近”とはいえない八千代市への営団地下鉄延伸に、都側から異論が噴出した。加えて、南側に並行する京成電鉄が「乗客を取られてしまう!」と建設反対の意向を貫き、収拾がつかないままにオイルショックで計画が凍結されてしまう。
しかし、この地は都心まで40キロ圏内で、直通する鉄道さえあれば片道1時間内の通勤圏に化ける。この立地を生かさねば、とばかりの猛烈な陳情もあり、1984年になって着工に至った。ここまでは良かったが、営団は一部の出資と東西線直通の関与にとどまっている。
このころに決定した「日本鉄道建設公団(鉄建公団、現在のJRTT)が建設」「枠組みは『P線』」という合意が、その後の明暗を分けてしまった。
「P線」とはざっくりいうと鉄建公団が建設を担い、設備引き渡しの後にかかった金額を、運賃収入で公団に返していく仕組みだ。「鉄建公団の(ほぼ)言い値を、事業会社が全額後払い」と言い替えると、分かりやすいだろうか。
この制度は主に、大手私鉄の路線建設を鉄建公団に委託する際に活用された。東急新玉川線(現:田園都市線)、京王相模原線などがこの枠組みで開業している。私鉄路線として建設しない場合は新たに鉄道会社を立ち上げる必要があり、東葉高速鉄道の場合は船橋市や千葉県・京成電鉄などを巻き込んで第3セクターを立ち上げることになった。
建設が決まると、沿線では駅予定地の近くに自宅を建てる人々が相次ぐなど、期待が高まっていた。しかし、着工段階で費用は当初の955億円から2091億円に膨張しており、いま思い返すと不穏な気配が漂っていた、ような気もする。
「成田空港問題」で土地を高値掴みするハメに
1991~1993年に順次予定していた東葉高速鉄道の開業は何度も遅れ、最終的に1996年4月までずれ込む。この間も建設費用は上昇を続け、最終的には2948億円と当初の3倍以上に跳ね上がった。
費用高騰の主な原因は建設期間中にバブル経済に突入して工費が高騰したことと、土地買収が難航したことだ。いわゆる「成田空港問題」の影響により、適正価格で用地買収を行う県の「土地収用委員会」が機能しなくなり「バブル期の高値掴み」かつ「ほぼ言い値」を余儀なくされた。


