遅々として進まない審理に、1994年、裁判所は和解を提案するが、若くして殺害された娘の無念を思うと、ひとみさんは首を縦に振ることができなかった。和解を選べば、組長に罪を認めさせることができなくなる。和解には断じて応じない。とはいえ、ヤクザによる脅しや嫌がらせは日に日にエスカレートしていた。

主婦が暴力団を相手に勝利

 悩みに悩んだ末、彼女は組長が謝罪することを条件に和解に応じることを決める。組長は渋った。が、実行犯の男がまたも供述を翻し、「組長の指示に従った」と証言したことで、事態は急展開を迎える。そして裁判が始まってから3年が経過した1995年、組長は和解条件を飲む。その条項には「被告は、暴力団の組長の立場にあるものとして、原告の長女堀江まやを殺害したことに対して深く謝罪する」と記されていた。

 一般人、それもごく普通の主婦が暴力団の組長を使用者責任で訴え実質的に勝利した日本初のケースとして、メディアは裁判の結末を大きく報じた。一方、組長は後の刑事裁判でも事件への関与を一貫して否定。最高裁まで争ったものの殺人罪と殺人未遂罪で懲役15年の実刑判決を下され服役した。

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写真はイメージ ©getty

 裁判終結後、ひとみさんは取材のテレビカメラを前に次のように語った。

「被害者の親としては大変不満があります。刑務所から出てきて組織を立て直したら、また被害者が出るかもしれない。これで終わらせるつもりはありません。ここからが始まりです。私は暴力団を社会から追放するために闘い続けます。それが、まやの本当の仇討ちです」

次の記事に続く 「18年も刑に服しても暴力団は暴力団ということでしょうか」死んだ娘のために手紙と現金も送ってくれたのに…「暴力団撲滅」を掲げる母親を怒らせた『あるヤクザの裏切り』(昭和60年)