昭和60年、ヤクザの抗争に巻き込まれたことで、最愛の娘を失った堀江ひとみさん。ヤクザに娘の命を奪った代償を支払わせるために、彼女は行動を開始。さらに娘の命を奪った実行犯とも会うことに……。そこでわかった母と実行犯の「驚愕の関係」とは? 我が子を無惨に殺された親、学生時代ひどいイジメに遭った者などが仕返しを果たした国内外の事件を取り上げた新刊『世界で起きた戦慄の復讐劇35』(鉄人社)から一部抜粋してお届けする。(全4回の2回目/続きを読む)
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法律上、ヤクザを裁くのは不可能。でも…
四十九日が過ぎたころ、ひとみさんは行動を開始する。まずは毎日のように警察署に通い「ちゃんと捜査やってんの? 動いてんの? いつまで経っても捕まらへんやん!」と担当刑事たちにプレッシャーをかけた。が、山一抗争が激化の度を増して兵庫県警は混乱の真っ只中。まやさんの事件も捜査は行われていたものの、犯人に繋がる有力な手がかりは得られずにいた。ひとみさんはもどかしさを覚え、時に「あんたらが動かへんのなら、片っ端からヤクザのとこに行ったるわ!」と叫び警察署を出て行ったこともあったという。
先の見えない日々が1年半ほど過ぎた1986年3月、ようやく実行犯の男が逮捕される。裁判にかけられた男は素直に自らの犯行を認め、殺人罪及び殺人未遂罪で懲役18年の判決を下される。公判を傍聴したひとみさんは、その男に見覚えがあるように感じた。ヤクザとは無縁の世界で生きてきたのに、昔どこかで見たような。おぼろげな記憶をはっきり思い出すのは、もう少し先のことだ。
その後、犯人の男に指示を出したとして清勇会の幹部や組長も逮捕・起訴されたが、組長は事件への関与を全面否定。実行犯の男からも組長の命令を受けた旨の供述は得られなかった。ひとみさんは納得できなかった。暴力団は組織であり、その構成員はトップの指示で動くのではないか。だとすれば、当然、組長にも責任がある。考えるうち、ひとみさんは決意する。自分がすべきは、ヤクザ組織を潰すこと以外にない、と。
この時代はバブル景気で、暴力団もその流れに乗り勢力を拡大していた。組員数は構成員、準構成員含め全国で約6万5千人。ヤクザ全体の資金は1兆円を超えた。そんな巨大組織を一般人が潰すなどありえない話である。が、
ひとみさんは相談に乗ってくれる弁護士を探し、方々を歩き回った。当然のように誰も全く相手にしてくれなかった。当時、暴力団という組織は法律上存在せず、彼らの違法な行為を裁くことは不可能だったのだ。
