厳しい現実を突きつけられながら、彼女は毎日のように図書館に通い法律の勉強を始めた。その傍ら弁護士探しも継続し、事件から6年後の1991年、ようやく心強い味方と出会う。垣添誠雄(1941年生)。ひとみさんの話を聞いてくれた初の弁護士だった。

 垣添は言った。まもなく「暴力団対策法」(正式名称は、暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律)が施行される。そうなれば、都道府県の判断で危険な組織を「指定暴力団」と定め、取り締まりが可能となる。さらに本法律では、組織の関与が疑われても逮捕が難しかった組のトップも「使用者責任」として裁くことができるようになる──。

 垣添弁護士の助言を受け、ひとみさんは1992年3月に暴対法が施行された後、清勇会の組長を相手取り使用者責任を問う民事訴訟を起こす。一般人がヤクザを訴えるという極めて異例なケースに、垣添以外にも協力したいという弁護士が集まり弁護団が結成された。

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裁判を前に会った「1人の男」

 裁判を目前に控え、ひとみさんは服役中の男と面会を果たす。以前、刑事裁判の法廷で見て以来、ずっと気になっていたことを確かめるためだ。改めて男を目の前にして、過去の記憶が蘇った。この男はまやさんが幼いころ、よく連れて行った摩耶山(神戸市灘区)の寺で母親と一緒に切り花を売っていた少年ではないだろうか。娘の名前も摩耶山から取ったもの。少年が娘とよく遊んでくれたこともよく覚えている。

写真はイメージ ©getty

 ひとみさんの問いかけに、男は涙を流しながらその少年は自分であると告白、騙されてヤクザに入り、本事件も上の命令に逆らえず実行に踏み切ったと口にした。泣きながら何度も頭を下げる男にひとみさんは「事情はわかった」と答え、刑務所を後にした。

次の記事に続く 「暴力団許すまじ」駅のホームで突き落とされそうになったことも…最愛の娘をヤクザに殺された主婦が「ヤクザの組長」に勝利するまで「ここからが始まりです」(昭和60年)