19歳の娘の命はなぜ奪われなければいけなかったのか? 昭和60年、ヤクザの抗争に巻き込まれたことで、最愛の娘を失った堀江ひとみさん。その後、彼女は「自分の手でヤクザを潰す」ことを決意。普通の主婦の復讐が、やがて日本中を巻き込む大騒動に発展したいくことに……。我が子を無惨に殺された親、学生時代ひどいイジメに遭った者などが仕返しを果たした国内外の事件を取り上げた新刊『世界で起きた戦慄の復讐劇35』(鉄人社)から一部抜粋してお届けする。(全4回の1回目/続きを読む)

写真はイメージ ©getty

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ごく普通の主婦VS暴力団

 1985年9月、兵庫県尼崎市のスナックに暴力団の男が乱入、銃を発砲した。標的は別の暴力団の構成員で店のマネージャーを務める男性だったが、銃弾はマネージャーだけでなく、店で働く女子専門学校生、堀江まやさん(当時19歳)にも命中。彼女は流れ弾をくらい死亡する。

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 何の落ち度もない一人娘をヤクザ同士の抗争の巻き添えで失った母、堀江ひとみさん(同40歳)は絶望の淵で復讐を誓う。自分の手でヤクザを潰す──。ごく普通の主婦が暴力団を相手に起こした前代未聞の闘い。

現場となった「あるスナック」

 1981年7月、当時組員3万人強を誇った日本最大の広域暴力団である山口組三代目組長、田岡一雄が心不全で死亡した(享年68)。ドンの逝去により、組は組長代行の山本弘(当時55歳)と若頭・竹中正久(同48歳)の2つの派閥に分裂。

 1984年7月、田岡元組長の未亡人の後押しもあり、竹中が4代目組長の座に就く。これに反発した山本は自分を推す直参組長らを引き連れ独立し「一和会」を結成。こうして山口組・一和会による血で血を争う「山一抗争」が勃発する。1985年1月、竹中組長が大阪府吹田市の愛人宅マンションで一和会系の組員に暗殺されると、翌2月には山口組豪友会組員が一和会中井組組員3人を襲撃し2人を射殺、1人に重傷を負わせる。

 抗争は1989年3月の終結までに317件発生し、一和会側に死者19人、負傷者49人、山口組側に死者10人、負傷者17人が出た他、警察官・市民にも危害が及ぶ。前出の堀江まやさんは、抗争が激化していた1985年9月28日に命を落とした一般人だった。