ソ連軍は怯えて手を焼き、日本軍司令部に泣き付いた

 一方、分野によっては公刊戦史よりも記述が詳しく、大戦末期の日ソ戦の基本文献として知られる中山隆志の「満洲──1945・8・9 ソ連軍進攻と日本軍」(国書刊行会、1990年)は、約2ページを割いてこれらの部隊の戦闘について記録している。このゲリラ部隊は、「昼はじっと我慢し、夜間に挺進斬り込みをして敵を混乱減殺してその行動を制約する」ことが目的で、3人一組の「組戦法」を基本としていたという。関東軍が無条件降伏を受け入れても、彼らの活動は続いたため、「ソ連軍は対応に手を焼き、早く戦闘をやめるよう日本軍司令部に要請」し、隊長の「逮捕命令も出されたようである」とある。

 彼らはソ連軍から、決死隊を意味する「スメルトニク」と名付けられた。満州国の占領後に暴虐を尽くしたソ連軍だったが、彼らには心底おびえた様子がうかがえる。証言録音によれば、車両や砲の操作に長じた兵や士官を集めてゲリラ部隊の訓練が本格化したのは、1945年5月ごろだったという。ゲリラ部隊は、大隊規模のものが挺進大隊、その上の連隊規模は遊撃隊、さらにその上は機動旅団と名付けられた。

 ゲリラ戦の訓練を担当したのは、機動旅団の内山二三夫大尉だった。機動旅団の中に遊撃戦の教育を担当する大隊が作られ、南方のコタバル戦線などで各種の機動戦の経験を積んでいた内山が教官に着任したという。潜入工作、対戦車攻撃、敵の勢力圏での生存技術などの科目があり、「私なんかが(それらの)教官を全部やらされた」と、説明した。

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 この部隊は歩兵なのか、工兵なのか──。兵種を尋ねたクックス博士に、内山は「歩兵はおります。戦車兵おります。工兵おります。砲兵おります。何の戦でもやる。爆薬も使えるし、敵の戦車を取ったらそれも操縦できるし、橋は壊すし自分でも作るし、何でもやるわけ。……だから兵科が、兵種がないわけですよ」と答えている。