「銃すら要らない。手榴弾と肉弾戦で…」

 機動旅団の「機動」は車両を意味するのかという重ねての問いに、内山は「車というものは、もう全然着想ないです。機敏に動くっていう意味ですよ」と、返した。「敵の戦車でも何でも使う。とにかく奇襲をして取ったものを使う。……最後には銃すら要らない。手榴弾と護拳(手指の保護具)があればいい」「私たちは土の下へ潜っている。その上を戦車でも何でも、どんどん走らせて。……土から顔を上げて出て、後ろをたたこうと。あるいは高等司令部を襲撃してやっつける、あるいは弾薬集積所をやっつける」のだと語った。

最終的には肉弾戦も厭わなかった ©︎AFLO

 内山らは6月ごろから、対ソ戦に備えて東部国境の街、琿春の近くに布陣した。7月末には大隊本部の場所を決め、「関東軍地質調査班」と称して家を借り、拠点作りを進めた。ソ連軍の侵攻は「おそらく9月か10月であろう」と見込んでいたという。ソ連軍が満州国へ侵攻してくるとなれば、最大兵力は西部国境からであろうと、内山は予測していた。だが、「ノモンハンあたりから大きな矢印が来たとしても、我々は生息できない。砂漠へ行ったら、いくら隠れようと思っても、隠れていられない」と判断したという。「第2次的な重点だけれども、ここなら密林が多い」という理由で、東部国境の一帯がゲリラ戦の舞台に選ばれた。

 密林で敵を攪乱しながら戦い続けるため、訓練目標の一つに、装備を背負って1日だけなら120キロ、3日間なら300キロを徒歩で移動できるようになることが挙げられていた。敵の勢力圏に入ってしまった後でも拠点にできる地下壕などの施設を、8月20日までに完成させるよう、内山は部下たちに命じた。

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 だが、先手を打ったのはソ連軍だった。

 内山がソ連軍の侵攻を知ったのは、間が悪いことに、部隊の主力を離れて管内を視察中の時だった。東寧の南西約40キロの山中で主力と合流する機会をうかがいながら、内山は近くにいた約60人の兵を従えて行動を開始した。一帯では、すでに散発的に戦闘が始まりつつあった。

 10日夜には、日本軍の服装を着けた「武装諜者」が一帯に入り込んできたという。朝鮮人が主体だった。日本陸軍は1938年6月に兵装を一新し、従来あった歩兵は赤、砲兵は黄色といった襟章の兵科の区別をなくしていたが、彼らの軍服にはその標示が着いていたので、すぐそれと分かった。それらの部隊とは大きな戦闘にはならなかったが、ある中隊は潜伏していた拠点を割り出されそうになり、移動を余儀なくされた。彼らは「結局、朝鮮へ行って、今の北朝鮮の主体になった」という。

 1945年8月11日未明には、合流できないままでいた中隊の一つがソ連軍戦車と戦って散り散りになったという情報が入ってきた。「遊撃隊としては最も恥ずべき戦闘」と、内山は評する。「ろくな爆薬も持ってないのに戦車と交戦しちゃって。……強いものが来たら隠れていろって教えたんです。……でも、若造だもんだからそれが分からなくて」

次の記事に続く 「人を殺すことより重視したのは…」第2次大戦末期、“無条件降伏後”もソ連軍を襲い続けた旧日本軍「恐怖のゲリラ部隊」が展開した衝撃戦術

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