第2次世界大戦の末期、ソ連軍を恐れさせた旧日本軍のゲリラ部隊が存在した。彼らはソ連軍から決死隊を意味する「スメルトニク」と名付けられ、1945年8月15日以降も激戦を繰り広げたとされる。
8月14日に蜂起し、ソ連軍の幕舎や武器庫を襲撃していった部隊は、停戦を知らせる無線を受け取ったにもかかわらず兵士の殺害などを続け、最終的に肉弾戦をも辞さなかったという。
そんな部隊は最後、どのような結末に至ったのか。部隊の教官として活動していた内山二三夫大尉を、米国の戦史研究家であるアルヴィン・クックス博士がインタビューした資料などを基に当時の日ソ戦をまとめた書籍『満州スパイ戦秘史』(永井靖二著、朝日新聞出版)から一部抜粋し、お届けする。(全3回の3回目/最初から読む)
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8月30日の昼ごろ、連隊長から内山にあてた暗号無線で命令が伝えられた。連隊本部はその時、東寧から南南西へ約80キロ離れた豊焼(南満州鉄道興寧線《現在は廃線》・豊焼駅)の北東側にいた。内山らからは南西へ十数キロ離れた地点だった。
「関東軍は大命(天皇の命令)により、停戦する。貴隊は速やかに攻撃を中止すべし」
この一文に続いて指示があった。9月2日までに豊焼へ来て、武器をソ連軍に引き渡せという。まさに青天の霹靂だった。
「私は降伏しない」
内山は激高した。暗号を使わない平文で応酬が始まった。「連隊長がそう言うのなら、私の地区に来てください。全連隊をまとめて、ここなら持久戦ができる」



