「動けなくなったら自決しろ」が部隊の掟
昼間は森に潜み、深夜になると10人ほどを連れて幕舎や武器庫を襲った。50人ほどのソ連兵が寝ている建物へ飛び込み、一人一部屋ずつ、暗闇の中で、手当たり次第に銃剣で突き、斬り付け、ホイッスルの合図で退却する戦法を繰り返した。昼間のうちに周到な偵察で退路を決め、撤収する際の集合場所と時刻を打ち合わせておいた。軍用犬でも追跡できないよう、退路は谷川を何回か渡るようにしていたという。
「動けなくなったら自決しろ」が、掟だった。「お前一人を助けるために4人が帰れなくなるんだ、と。それは精神教育としてやっていた」と、内山は語った。ゲリラ部隊は、夜襲を特に多く仕掛けた8月14~20日の間で、約190丁もの自動小銃を奪い取ったという。
ソ連軍はそれまで、内山の眼前をもっぱら南下していた。だが、17~18日ごろから、戻ってくる部隊が目立つようになった。「敵は日本軍の主陣地にぶつかり、攻略が無理なので、別の正面に兵力転換しているんじゃないかと思っていた」。今から思えば「まぁ、甘い考えなんだけれども」と前置きして、内山は振り返った。
20日、拠点にほど近い老黒山(東寧の南南西約40キロ)にあった日本軍の車両修理基地跡に、ソ連軍の部隊司令部が移転してきたという情報がもたらされた。整備兵など1千人規模の人員だという。「これは最高の目標だ」。ここをつぶせば一帯の敵を無力化できると考え、闇が深くなる月齢を見計らって襲撃を「26日午前0時から」と決め、入念な偵察に取りかかった。
五十数人が二手に分かれた。内山自身は23~24人を連れ、前夜の25日未明には突入地点の近くに身を潜めていた。丸1日かけて兵士や車両の出入りを見極め、午前0時ちょうどに「アカツリゴシ」と呼んでいた赤色の信号灯を打ち上げた。突入の合図だった。


