子供たちは何か大きなものにつまずいているのではないか
2022年度、文科省が教育改革の一つとして行ったのが新学習指導要領における国語の内容の変更だ。高校国語で必修だった「国語総合」を「言語文化」と「現代の国語」にわけたのである。前者はこれまで通りの小説や詩といった文学作品を扱い、後者は契約書の読解やデータの読み取りなど実用的な文章を通して実社会に必要な能力の育成を目指している。実用的な文章とは他に、企画書、会議の記録、電子メール、宣伝文なども含まれ、ゆくゆくは国語の授業や大学入試の読解が文学作品からそういった文章に替わるのではないかという声が上がっている。
この改革には、一部の教育者から疑問が投げかけられている。漢字や古文まで学ぶ日本の国語教育と、アルファベットだけで成り立つ欧米の国語教育は根本的に異なるものだとか、島国で物事を曖昧にしながら関係性を築く日本文化と、多民族国家で個人主義が重視される欧米文化とでは求められる能力が違うといった意見だ。
それでも文科省があえて変更に踏み切った背景には、近年のグローバリゼーションがあるといえるだろう。インターネットで世界中の人たちとつながり、ビジネスからエンターテイメントまであらゆるところで国境の垣根が消えつつある今、PISAのテストが求めるような読解力を日本の子供につけさせなければ、国際的な競争から取り残されてしまうという危機感がある。だからこそ、契約書など実用的な文章を読む力をつけさせようとしているのだ。
どちらの主張にも一理あるが、今回、校長が指摘しているのは、こうした教育界を主導する人たちの間で行われている議論への違和感だ。つまり、そもそも学校現場で見られる子供たちの思考力の欠如や珍妙な解釈を、「読解力の低下」という問題だけに留めて考えていいのかということである。文章を正確に読んで理解する以前のところで、子供たちは何か大きなものにつまずいているのではないか。