そんなある日、兵十は自分の家にごんが忍び込んでいるのを目撃する。彼は、いたずらをしに来た、と早とちりして火縄銃で撃ち殺す。だが、土間に栗が置かれているのを見て、これまで食べ物を運んでくれていたのがごんだったことに気づき、その場に立ちすくむ――。
授業で取り上げたのは、ごんが兵十の母親の葬儀に出くわす場面である。そこでは、兵十の家に村人たちが集まり、葬儀の準備をしているシーンが描かれる。家の前では村の女たちが大きな鍋で料理をしている。作中の描写は次の通りだ。
〈よそいきの着物を着て、腰に手ぬぐいを下げたりした女たちが、表のかまどで火をたいています。大きななべの中では、何かぐずぐずにえていました〉
新美南吉は、ごんが見た光景なので「何か」という表現をしたのだ。葬儀で村の女性たちが正装をして力を合わせて大きな鍋で何かを煮ていると書かれていることから、常識的に読めば、参列者にふるまう食事を用意している場面だと想像できるはずだ。
教員もそう考えて、生徒たちを班にわけて「鍋で何を煮ているのか」などを話し合わせた。ところが、生徒たちは冒頭のように「兵十の母の死体を消毒している」「死体を煮て溶かしている」と回答したのである。
当初、私は生徒たちがふざけて答えているのだと思っていた。だが、8つの班のうち5つの班が、3、4人で話し合った結論として、「死体を煮る」と答えているのだ。みんな真剣な表情で、冗談めかした様子は微塵もない。この学校は一学年4クラスの、学力レベルとしてはごく普通の小学校だ。
たびたび同様のことを目撃していた
おそらく私にとって初めてのことなら、苦笑いして流していただろう。だが、似たような場面に出くわしたのは一度や二度ではなかった。
私は著述業をする傍ら年間に50件ほど講演会を引き受けており、子供をテーマにしたノンフィクションや児童書を数多く手掛けていることから、依頼の3割は学校をはじめとした教育機関だ。そのため、この十数年ほぼ毎月、全国のいろんな教育機関を訪れ、実際に授業に参加させてもらったり、教員や保護者と語り合ったりしているのだが、たびたび同様のことを目撃していたのである。
とはいえ、授業に口出しするのも憚られるので、毎回私はその場にいた教員と「困りましたね」と笑って済ませたり、聞こえなかったふりをしてやりすごしたりしていた。だが、この時の授業では、生徒たちから出ていた意見があまりに現実離れしていたこともあって強烈に頭に残り、それまでの体験との関連性を考えずにはいられなかったのである。