少年犯罪から虐待家庭、不登校、引きこもりまで、現代の子供たちが直面する様々な問題を取材してきた石井光太氏による、教育問題の最深部に迫った『ルポ 誰が国語力を殺すのか』(文春文庫)の一部を抜粋して紹介。いま、子供たちの〈言葉と思考力〉に何が起こっているのか。(全2回の2回目/前編より続く)

石井光太さん ©文藝春秋

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クラスメイトに「死ね」と言ってはいけない→「なぜ?」と理解できない

 校長は言う。

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「大学の研究者や文科省の上の人たちは、今の子供たちの活字離れだとか、読解力低下の問題ばかりを重視しています。私もそれがまったくないとは思いません。でも、教育現場にいて感じるのは、国語の文章が読めるかどうかは一つの事象でしかなく、他の教科や日常においても、先に話したのと同じような現象が見られることの方が危ういということです。

 社会で戦争のことを学んでも、そこで生きる人たちの生活の苦しみを想像できない。理科で生態系を勉強しても、命の尊さに結びつけて考えられない。生活指導でクラスメイトに『死ね』と言ってはいけないと話しても、『なぜ?』と理解できないといったことです。

 読解力にはテクニックの要素もあります。方法を教えて練習をつみ重ねれば読めるようになります。でも、子供たちはテクニックをつける前段階のところで、重大な力を失っているように思えてならないのです。それが彼らに様々な問題を引き起こしてしまっている。あまり指摘する人がいませんが、私としてはとても深刻な事態ではないかと危ぶんでいます」

 今の子供たちは、昔とは比較にならないくらい大量の情報に取り囲まれ、常にそれを取捨選択する必要性に迫られている。その点では、彼らは溢れんばかりの情報を次から次に整理したり、処理したりする力はあるのかもしれない。

 だが、そうした力と、一つの物事の前に立ってじっくりと向き合い、そこから何かを感じ取ったり背景を想像したりして、自分の思考を磨き上げていく力はまったくの別物だ。校長が今の子供たちの多くに欠けているのではないかと危惧しているのはこちらの能力なのだ。

 先の話でいえば、生徒が後者の能力を持っていれば、学校で学んだ戦争をきっかけに、その国に暮らす人々の生活を思い描き、武器を持って争うことのおぞましさを感じ、自分のなすべきことを固めていけるだろう。しかし、戦争を記号のように受け止めてしまえば、どこまでも他人事でしかない。