たとえば、今の教育現場が直面している大きな問題の一つに生徒の不登校がある。小中学生合わせたその数は、2024年の発表で約34万人に達している。フリースクールやひきこもり支援の現場を取材し、本人たちに理由を尋ねると、次のように答えるケースが非常に多い。
「なんで(不登校になった)か、自分でも理由がわかんない」
東京にある日本を代表するフリースクール「東京シューレ」を取材した時は、インタビューした子供の3割強がそれに該当した。
同様のことは、ひきこもりについても当てはまる。私自身はこれまで複数回にわたってひきこもり取材をしたことがあるが、特に未成年はひきこもった理由を「わからない」と答えるのが大半だ。自分自身でもなぜ自室から出られなくなったのか理解していないのである。
不登校にせよ、ひきこもりにせよ、各人にそうなった固有の事情があるはずなのに、彼らはわが身に起きた問題を言葉によって把握することができていない。だから、何をどうしたいのかということを自覚しないまま、漠然と学校へ行けなくなったり、部屋から出られなくなったりする。教員の側も、家族の側も、問題解決の糸口がつかめないので、どうやって働きかければいいのかわからない。
「ぶっ殺すんだろ」「ああ、ぶっ殺すよ」少しずつカッターで切りつけ…
少年犯罪においても、言葉の欠如として印象に残っている事件がある。2015年に神奈川県川崎市で起きた中1男子殺害事件だ。17~18歳の少年3人が、中学1年生の少年を多摩川の河川敷へつれていき、カッターナイフによって最低でも43回にわたって切りつけて殺害したのである。
加害者3人は最初から殺害を意図していたわけではなかった。集まって食事をしている最中に、些細な勘違いから「ぶっ殺す」などと乱暴な発言をしはじめた。最初の時点では殺意があったわけではなく、「脅かそう」「ちょっと痛めつけよう」というつもりだったのだが、それを「ぶっ殺す」という言葉で表現していたため、3人の間ではだんだんと誤解が生じ、本人たちも無自覚のまま実際に殺害するという方向へ進んでいく。
河川敷に到着した後も、3人は「ぶっ殺すんだろ」「ああ、ぶっ殺すよ」「じゃあ、やれよ」「お前だってやれよ」という表層的な言葉のやりとりの中で、お互いにカッターを押し付け合って少しずつ切りつけ、ついには本当に被害者の命を奪ってしまう。