少年たちが殺害後にとった“驚きの行動”

 その後、彼らは自分たちのやったことに向き合おうとせず、河川敷に遺体を放置したまま仲間の家に行って、朝までゲームに没頭した。それから逮捕までの約1週間、3人のLINEの記録には事件のことがまったくと言っていいほど触れられておらず、事件そのものを忘れてしまったかのようだった。

写真はイメージ ©iStock.com

 事件後の取材によって、加害者のうち2人は外国にルーツのある母親の下で育ち、虐待や差別を受けていたことが明らかになった。彼らは幼い頃から言葉によって人間関係を築くのが苦手で、お互いを暇つぶしの相手としか捉えておらず、犠牲になった少年の気持ちどころか、事件の重大さすら考えられていなかった。言葉の喪失が、加害者たちの冷酷さを生み出しただけでなく、自らの将来を捨てることにさえ無頓着にさせていたのである(詳細は拙著『43回の殺意』参照)。

どこの時点で彼らは言葉を失ったのか

 こうした子供たちと接していて私が抱くのは、彼らがもし適切な言葉の力を持っていたら、感情や行動にブレーキをかけられる段階がいくつもあっただろうという、やり場のない思いだ。彼らにはそれがないので、自分が置かれている客観的な状況やその行動が引き起こす事態を考えることができない。だから、いとも容易く底なし沼にはまり込み、思考停止のまま沈んでいってしまう。

ADVERTISEMENT

――どこの時点で彼らは言葉を失ったのか……。

 ノンフィクションを書く中で、いく度そんなやるせなさを感じたことだろう。形は違えども、校長もまた学校で大勢の子供たちと触れ合う中で同じことを痛感していたのだ。

 校長は次のようにしめくくった。

「学校は子供たちに語彙力をつけさせて、考える力や表現する力を養わせるところです。教科でいえば、主に国語がそれを担うことになっている。でも、今の国語の授業は教科書を終わらせるのが精いっぱいで、深いレベルで彼らが必要とする力を養えていません。

 なんとなくの思いですが、現在の教育のあり方は、子供たちが社会で生きていくために必要な国語力を与えるのに適した仕組みになっているでしょうか。たとえば今さかんに言われている読解力をつけようみたいな話は、教科書の文章を正確に読ませることの方に重点が置かれていて、そうした力を養わせることが二の次にされているように思うのです。私は国語が果たす役割を、もう一度きちんと見つめる段階に来ていると真剣に考えています」

次の記事に続く 見知らぬ女性をナイフで…「目の前に人がいたんで、バァーってやった」17歳の少年が“オノマトペでしか罪を説明できない”深刻なワケ