クラスメイトに対する暴言に関しても同じだ。今の子供は好ましくないことが起これば、二言目には「死ね」と吐き捨てる傾向にある。言われた側が、その言葉をどう受け止めるかを考えていない。だから、相手が深く傷ついて学校に来られなくなっても、自分が原因だと考えられない。

 もしかしたら『ごんぎつね』の根本的な誤読も、この延長線上にあるのではないだろうか。登場人物の内面や物語の背景を考えることをせず、文章を字面のみで記号のように組み合わせているだけだから、堂々と「兵十の母親を煮ている」などと発言し、それをおかしいと感じない。仮に今の子供の中から、物事を感じたり、想像したりする力が抜け落ちているのだとしたら、看過できることではない。

写真はイメージ ©years/イメージマート

「なんで(不登校になった)か、自分でも理由がわかんない」

 校長はつづける。

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「学校で得る知識って、社会で生きていくための入り口みたいなものですよね。子供たちはその入り口から、自分の言葉でもってたくさんのことを想像したり、悩んだり、表現したりすることで生きる力を身につけていきます。それによって人間関係や社会が豊かになっていく。

 でも、今の子は知識の暗記や正論を述べることだけにとらわれて、そこから自分の言葉で考える、想像する、表現するといったことが苦手なので、国語に限らず、他の教科から日常生活までいろんな誤解が生じ、生きづらさが生まれたり、トラブルになったりしてしまうのです。言ってしまえば、子供たちの中で言葉が失われている状態なのです。

 こういう子たちは中学を卒業した後もずっと生きづらさを抱えていくことが多いのではないかと感じています。よく卒業生の親御さんからこう言われることがあります。

『せっかく高校へ行ったのに、子供がすぐに中退してしまった。バイトも1カ月ももたない。何度も話し合いの場を持っても、子供は自分でも原因がわかっていないらしく、説明が要領を得ない。親として対処のしようがない』

 親も教員も、何とかしてあげたいと思っても、本人が自分が抱えている問題を言葉にできなければ手を差し伸べることができません。だからこそ、そのようになる前にしっかりとした言葉を身につけさせていかなければならないのです」

 私はそれを聞いて、これまでノンフィクションの仕事で出会った子供たちのことが走馬灯のように脳裏に浮かんだ。

 私は20代の半ばで物書きになってから取材で国内外の現場を歩き、人々の話に耳を傾け、時には生活を共にして本を著してきた。そのテーマは、児童虐待、少年事件、生活困窮、自殺など深刻な社会問題が大半だった。これらの当事者に共通するのが、校長が語ったような自らの言葉で考え、想像する力の欠如だ。