そこに駆け付けてきたのが大目付の松平忠郷です。忠郷は背後から佐野を組み伏せます。そして一説によると柳生久通(目付)が佐野から刀を取り上げるのでした(忠郷が刀を取り上げたともされます)。佐野の捕獲に成功したのです。

重傷の意知は抱えられて下部屋に連れて行かれました。そこで医師による傷の手当てが行われます。しかし医師らによるしっかりした治療はできなかったと言われています(針と糸がなかったので傷口を縫うことはできなかったとされます)。

父・意次は神田橋の屋敷にいましたが、注進により意知の遭難を知り急いで登城したとされます。簡易な治療の後、意知は駕籠で神田橋の屋敷に運ばれました。

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一方、意知に斬り付けて捕獲された佐野は蘇鉄の間に連行、押し込められます。その後、町奉行に引き渡され小伝馬町(東京都中央区)の揚屋(御目見(おめみえ)以下の御家人ほか未決囚を収容した雑居房)に入れられました。佐野は旗本(御目見以上)でしたのでこの扱いを不当と感じたかもしれません。

佐野の取り調べが大目付や目付により行われますが、今回の刃傷事件は佐野の乱心によるものとされます。4月3日、佐野に切腹が申し渡されました。揚屋座敷の前庭で切腹そして介錯が行われます。佐野はこのとき、28歳。意知は3月26日に佐野に斬られたことで死亡したとされます。

斬った佐野は28歳、斬られた意知は35歳

佐野はなぜ意知に斬りかかったのか。1つの説に前述した乱心というものがあります。これは幕府評定所の判決ではありますが、本当にそうかは疑問です。意知が退出する際、彼1人ではなく、他の若年寄も一緒に歩いていました。佐野が乱心だったならば、他の若年寄も斬り付けられてもおかしくはないと思うのです。

ところが佐野はそれをせず、意知を標的にして執拗に追いかけて何度も斬り付けています。ということは佐野は意知もしくは田沼家に何らかの恨みを抱いており斬り付けたと考えた方が良いのではと筆者は思うのです。心神喪失の状態になって斬り付けたのではなく、しっかりした意志のもと佐野は意知を斬ったと感じます。佐野が意知に斬り付けたのは私怨ではないかとの説もあります。