父・意次が老中となるのが安永元年(1772)のことであり、意次が失脚するのが天明6年(1786)のこと。いわゆる「田沼時代」の後半に意知は若年寄に就任したのです。異例と言うと、父が老中、子が若年寄というのも異例でした。意次の権勢が続いていたならば意知がいずれ老中になることは確実だったと言えるでしょう。
父・田沼意次の「七光り」で優遇された
若年寄は月番(毎月交替でそのうちの1人が諸般の政務を担当し、他の者はこれを補佐する勤務方法)でしたが、意知はこれを免除され、奥勤めを時々するように命じられています。これも意次の後継者ならではの優遇でしょう。部屋住みの身でここまでの出世をするのは父・意次の権勢があったればこそ。意知は親の七光をものすごく受けていたことになります。
将来が有望視されていた意知ですが、突如、暗転します。それが天明4年(1784)3月24日のことでした。同日の昼頃、意知は同じ若年寄の同僚・太田資愛(遠州掛川藩主)、酒井忠休(出羽松山藩主)らと共に江戸城を退出しようとしていました。老中の父・意次は既に退出しています。意知らが新番組(将軍の警護を職掌とした)の詰所の前を通りかかった時に事件は起こりました。
意知暗殺の瞬間、江戸城内でのドキュメント
それは午後1時頃だったとされますが、番士の旗本・佐野善左衛門政言(「べらぼう」で矢本悠馬が演じる)が突然、意知に斬りかかったのです。番所の詰所には佐野だけがいたわけではありません。5人の番士の中から佐野が突然抜刀して走り出し、意知を袈裟懸(けさが)けに斬ったのです。佐野が所持していた刀は粟田口忠綱の作と言われています。
佐野の攻撃に対し、意知は脇差を抜きませんでした。殿中だったからです。鞘(さや)で佐野の攻撃を受け止めたので、意知は斬られることになります。斬られても意知はその場で倒れ込まず、近くの桔梗の間に後ずさりしながら逃げるのでした。佐野は意知を執拗に追いかけ、意知に致命傷を負わせます。ここで意知はうつ伏せに倒れ込みます。