“バターン死の行進”の報復行為に出るのではないか
その後、特殊潜行宣伝班は特別工作班と改名され、浜野は食糧調達に追われながら、バギオでフィリピン人青年への日本語教育と軍事教練に携わった。また、軍内宣伝ということで各部隊に赴いては講演していたが、マラリア罹患中の4月22日に報道部と一緒にバギオを撤退。
米軍機の爆撃を逃れながら、1945年8月1日、浜野の34歳の誕生日に日本軍が最後の拠点としたイフガオの山奥に辿り着く。そして同月16日に新たに着任した上妻から、同盟電が重大発表を予告したまま、無線機の故障などで内容が判明しないと聞き、戦争終結と直感したという。
その翌日に終戦を知った浜野の日記には、「恐ろしい時がついに来た。覚悟はしていないわけではなかったが、さてそれが現実となってみると、呆然たるのみである。いま何を感想しても洞ろである」と記している。
8月20日、米軍への投降に備えて、報道員、臨時嘱託、傭人らを一般居留民待遇にすると聞くも、浜野は専任嘱託であり、軍直属の文官で対象外と言われる。
しかし、「一般居留民と軍隊では、これを受け入れるアメリカ側の扱いにも当然大きな差があるはずだ。一説によると、軍隊に対しては、“バターン死の行進”の報復行為に出るのではないかという話もあるくらいで、相当きびしいものがあると思わねばなるまい。
しかし、そんなことされては、現在の僕の健康状態から考えてみると、まず助かる見込みはない。そこで、若干うしろめたい気はするが、背に腹はかえられぬ。
部長に頼んで一般居留民扱いにして貰いたい…〔引用者中略〕…折角苦労してここまで生きて来たのだ。いまさら死んだでは浮かぶ瀬もない」ということで、翌日部長を訪ねてお願いすると、「司令部の方針が変わって、臨時嘱託も内地経由の者は、一般居留民扱いから外されることになった」と言われ、「いまさらという気がしないでもない」と落胆した。
「バターン死の行進」とは、1942年4月9日に日本軍に降伏した米比軍と民間人7万余をルソン島オードネル収容所まで徒歩行進で移送させた結果、その道中ならびに収容所到着後に3万人近い死者が出た悲劇である。1944年1月末に生存者の体験談がアメリカで報じられて、広く知られることになった。



