第二次世界大戦後、旧日本軍関係者を含む多くの日本人は戦勝国によって抑留された。中でも有名なのはソ連の「シベリア抑留」だが、それ以外にも英国、米国、オーストラリアといった各国による抑留があった。

 例えば米軍が管理したフィリピンでは、約13万人の日本兵が抑留されていたという。『南方抑留─日本軍兵士、もう一つの悲劇─』(林 英一著、新潮社)から、陸軍軍属として報道に従事していた浜野健三郎氏の日記などを基に、当時の現地で起こっていたことを明らかにする。(全3回の1回目/続きを読む)

シベリア以外でも、日本人は抑留されている。画像は旧オランダ領リアウ諸島・レンパン島で作業に従事する人たち

◆◆◆

ADVERTISEMENT

 浜野が乗船した船がマニラに到着したのは1944年8月13日。10月15日には台湾沖航空戦での日本軍の大戦果が伝えられ、報道部もマニラ市内で街頭宣伝をしたが、まったくの虚報であることがやがて判明する。

 この頃、レイテ島に上陸した米軍は、12月にはミンドロ島にまで進出し、これを迎え撃つ日本軍は、マニラを放棄して兵力をルソン島の山岳地帯に分散させた。こうした動きを受けて、報道部では戦場宣伝隊を編成し、米軍上陸時に敵の背後に潜入して対敵伝単を散布するための特殊潜行宣伝班がつくられ、その班長に浜野が選ばれた。

 浜野は班員で洋画家の阿部芳文、俳優の片岡六郎と相談し、マカピリ(フィリピン愛国同志会)の青年をカバナツアン方面でリクルートすることになった。

 ところが、米軍の進出は浜野が予想していた1カ月後よりも早く、フィリピン人青年を訓練する計画は「時すでに遅し」で、「残るのは軍内宣伝ばかり」、「軍内宣伝が本命だ」という話に落ち着く。

 戦局は悪化の一途を辿り、1945年1月15日には軍属に対して臨時召集が命じられ「根こそぎ動員」が図られるも、徴兵検査が丁種不合格者だった浜野は対象外となり、「小生はまたも相手にされず。チト残念な気もするが、雨夜の星の如く寥々となってしまった軍属殿であるのも、また一興かもしれない」と日記に書いており、彼の軍隊に対する複雑な胸中が窺い知れる。