第二次世界大戦後、旧日本軍関係者を含む多くの日本人は戦勝国によって抑留された。中でも有名なのはソ連の「シベリア抑留」だが、それ以外にも英国、米国、オーストラリアといった各国による抑留があった。

 『南方抑留─日本軍兵士、もう一つの悲劇─』(林 英一著、新潮社)から一部抜粋し、フィリピンに抑留された人々の悲しい食事事情をお届けする。(全3回の3回目/最初から読む)

終戦後、日本人は各地で抑留された。画像は旧ビルマ(現ミャンマー)のアーロン収容所

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 同月13日の日記では、「朝・昼食とも粥。しかも量も少なかったので、午后は空腹耐えがたく、憂鬱極まりなし。さらに、昨日メリケン粉が2袋特配になったのでお菓子が上がるそうだと朝からみんな期待していたのだったが、そのメリケン粉は数本のウドンとなって夕食に添加されたのみ。他の中隊では饅頭をつくったり、お菓子が上ったりしているのにと、皆不平タラタラであった。事実、空腹は我慢の限度を越えている。食糧増配が期待できないとすれば、いまは一日も早い帰国を神に祈るばかりである」と、浜野自身が「神頼み」している。

 こうしたCO100の炊事に対する不満は、中隊本部によって一方的に食券が廃止されたことによる混乱と減配によって頂点に達し、将校たちが憤慨して糾弾したため、夕食からは食券が復活した。

 翌日には問題化していた炊事員が全員更迭されて、その日の昼食が改善されると、それだけでみな和やかになった。浜野は「みんな子供になっているのである。ちょっとしたことで苛立ったり、喜んだりするのである。衣食足って礼節を知るとはこのことだろう」と述べている。