「“バターン死の行進”の仕返しはおそらく事実」だんだんと配給量が減っていった

 炊事問題は、CO100とCO110が炊事場を共用し、隣にはCO48の炊事場もあるため、その出来栄えが一目瞭然となることで紛糾した、同じ配給量なのに向こうの方が飯量が多い、他の中隊にはドーナツ、饅頭があったといったことが不満の種になっていた。

 いわく「現在の米の配給量は1人当り225グラム。炊事の競争は相変わらず続いているが、今日もわが中隊の完敗。敗けたと思うと、ゆっくり食事を楽しむ余裕もなくなるほどみじめな気分になる」。

 このような炊事に対する不満は将校中隊だけでなく、兵隊中隊でも同じで、CO39では演芸会にかこつけて炊事糾弾や本部批判で大荒れになったという。そうした状況であるにもかかわらず、10月21日にはまたも糧秣が減らされた。

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 入所当初1中隊500人で9俵が6俵になり、1中隊600人に改編後に7俵になっていたのが、その日から5俵となったのだ。それだけでなくパンや間食の配給もなくなった。

 浜野には「バターン戦当時の仕返しをしているのだというものもあるが、塩さえ配給されないところをみると、報復説はおそらく事実であろう」と思えてならなかった。その夜、CO29の炊事場で将校と炊事員の間で大喧嘩があり、将校と兵隊の対立が悪化したという。

少ない食事量を巡って日本人同士の争いが起こっていた(虜人日記博物館HPより)

「おれたちは青草を食っているのに」食料を巡って暴動が発生

 先に触れたように、フィリピンの収容所では米軍が将校と下士官・兵を分離して効率的に管理・運営しようとしていた。

 カンルバン収容所では将校と下士官・兵が完全に分離収容された結果、将校中隊と兵隊中隊が反目し、浜野のいた第4キャンプでは後者が前者を襲撃する事件が発生。第2キャンプでも前者と後者のトラブルが多発し、将校中隊が消防小隊と称する自警団を組織している。

 それぞれの中隊内における階級差が消滅した結果、そのなかで新たな権力者となったのが炊事員たちだった。彼らは丸々と太り、「特権階級」のようにみえた。飽食しているのは明らかで、猥談に興じる余裕があるほど栄養を摂取できていたという。

 しかし翌25日、「ポテトが配給されたとはいえ、米4俵の薄粥では腹の虫を胡麻かすことはできぬ。空っ腹かかえて不貞寝していたところへ、今日は6俵半だという快報が入った。その途端、全幕舎に歓声が上がった」。将官幕舎では来月から酒保(飲食物や日用品の売店)も開設されるという。

 さらに同月29日には7俵半となり、翌30日には煙草の配給もあった。浜野の入所した頃、煙草は米兵との物々交換でしか手に入らず、その相場は、煙草1箱(20本入り)が5ペソ、時計一個で煙草10~15箱という貴重品であった。それが11月5日には200本も配給されている。

  しかし、翌6日夜に歩兵中隊のCO43では、兵隊たちが「おれたちは青草を食っているというのに……」と炊事員や中隊本部を攻撃する騒ぎが起き、同月8日には米が再び6俵半に減らされたばかりか、塩や副食物も少なく、野草の粥となり、下痢患者が続出した。