第二次世界大戦後、旧日本軍関係者を含む多くの日本人は戦勝国によって抑留された。中でも有名なのはソ連の「シベリア抑留」だが、それ以外にも英国、米国、オーストラリアといった各国による抑留があった。
『南方抑留─日本軍兵士、もう一つの悲劇─』(林 英一著、新潮社)から一部抜粋し、フィリピンに抑留された人々が現地人から罵声を浴びせられたり、食事を巡って争ったりしていた当時の事情をお届けする。(全3回の2回目/続きを読む)
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9月23日、浜野はようやくムニオス仮収容所に到着し、さらにそこから輸送列車でマニラ南のカンルバン収容所の第一キャンプに送られた。
マニラ市内に近づき、列車が徐行と一時停車を繰り返す度に、フィリピン人から「バカヤロー!」、「イカオ・パタイ(お前ら死ね)」、「ドロボー!」、「パタイ、パタイ!(殺せ、殺せ)」と罵声を浴びせられ、なかには銃口を向ける者さえいたと回想している。
仮収容所と呼ばれていた第一キャンプに着くと、背中とズボンの膝にP・W(Prisoners of War、捕虜)と書かれた作業服や食器を支給された上で、いったん未決テントに収容された。そこで身上調査を受けてから浜野は第四キャンプのCO100という将校中隊(500人)に入れられた。
同年10月1日、捕虜は頭髪を1センチ以下にせよとの命令を受け、浜野は徴兵検査のとき以来、実に十数年ぶりに丸坊主になった、すると「囚人めいた心境になって来たから妙なものである」。
切られた長髪は栄養失調のためかトウモロコシのように赤茶けて薄く、また散髪後に伸びた髪は、これまた栄養失調のためか枝毛が多かったという。



