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手榴弾1発を携行し、米軍の下へ
すっかり栄養失調になっていた浜野は、このままでは「歩行もあやしいこの体では、どうにもならない。落伍は必至だ」と憂いながらも、第二梯団の一員として1945年9月5日に投降予定地のキアンガンを目指して「転進」し、何とか無事に到着。同月18日に目的地の村落で米軍の武装解除と私物検査を受けた。
武装解除と私物検査は、第一梯団、第二梯団、第三梯団の順番で、将校、下士官、兵と分かれて実施された。自決用の手榴弾1発しか携行していなかった浜野にとって、日記の没収が唯一の気がかりであったが、米兵は日記に目もくれなかった。
その後、米軍の携帯口糧(レーション)を2箱受け取り、18キロを移動。その際、フィリピン人少年を連れた米兵数名が時計、万年筆、将校の襟章、刀帯などを略奪しているのが見えたので、浜野は時計と万年筆2本を襟元から懐に素早く隠して難を逃れたが、略奪行為をする「ギャング」のような米兵がいたのは衝撃であったと、後に回想している。
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