「史上最大の海戦」と称されることもある、第二次世界大戦で日米が激しい戦闘を繰り広げたレイテ沖海戦。「神風特別攻撃隊」が初めて組織的に運用された戦場とされ、旧日本軍は総力を注ぎ込むも壊滅的な打撃を受けた。

生還特攻 4人はなぜ逃げなかったのか』(戸津井康之著、光文社)から、レイテ沖海戦で重巡洋艦「最上」に乗船し、特攻をも覚悟しながら生還した加藤昇さんのインタビューをお届けする。(全3回の1回目/続きを読む)

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待機中の「零式水偵」にも発艦命令が…

 22日、加藤が乗艦する「最上」はフィリピン東部に位置するスリガオ海峡へと向かっていた。24日、「最上」から偵察のために飛び立った2機(午前2時と午前7時に分かれて)の「零式水偵」がレイテ湾上空で、湾内に米艦隊が集結している状況を確認し、報告した後、ミンドロ島の基地へ帰投していた。

 加藤は「最上」の艦内で偵察任務の命令を待ち、控えていた。まだ、残された3機の「零式水偵」が、「最上」の後部甲板の上で発艦の命令を待っていた。そして待機中の「零式水偵」にもついに発艦命令が出る。

 だが、その命令の内容は偵察任務ではなかった。

「偵察任務で離陸していった2機の『零式水偵』を見送った後、私たちは残った3機の機体から、はずせる部品をすべてはずし、機体の外へと運び出していました」

零式水上偵察機、通称「零式水偵」(書籍より転載、以下同)

 決戦直前。

「3機の『零式水偵』は地上戦で温存するため、『最上』から陸の基地へ移動させる計画が実行されたのです」と加藤が説明する。

「航空整備兵たちを乗せられるだけ機体へ乗せました。『零式水偵』は3人乗りですから、部品をはずせば結構、広いスペースが確保でき、定員以上でも人を乗せることができます。だから、機体の隙間という隙間に身体を折り曲げさせて押し込むようにして何人も乗せました」と加藤は話す。

 通常よりも、はるかに“定員オーバー”となった3機の「零式水偵」であるが、カタパルトから弾き出されるようにして次々と発艦。「最上」から飛び立っていった。

 発艦直後は重い機体を傾けるようにしながらも、上空で体勢を立て直した「零式水偵」は、両翼をふりながら、甲板に並んだ加藤たち乗組員に別れを告げると、そのままミンドロ島へと向かって飛び去っていった。

「もう、偵察用の艦載機は必要なかったですからね。航空整備兵も同じです。私ですか? もちろん『最上』に残りましたよ。だって私は海軍少尉ですから」