士官たちは「おそらく、二度と生きては帰れない」と覚悟した

 加藤は平然とこう語るが、「零式水偵」の搭乗員なのだから、一緒にミンドロ島へ向かっていてもおかしくなかったはずだ。貴重な偵察要員を温存するためにも……。

「いえ、いくら私が『最上』艦載機の偵察要員として艦に乗っているからとはいえ、海軍少尉が戦場を離れるわけにはいかないのです。“逃げる気”も無論ありませんしね……。艦と運命をともにする。それが海軍士官の務めなのです」

 個室の「ガンルーム」が与えられ、ベッドで就寝でき、従兵も付く。それは階級の責任の重さへの処遇として与えられた権限であり、その権限を加藤はこのとき、責務、義務として戦場で果たそうとしていた。

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 加藤のほか「最上」に残った士官たちは皆、同じく“決死の覚悟”を固めていた。加藤が明かす。

「上官からこう言われたんです。『おそらく我々は、もう二度と生きては帰れない』と……」

1943年、海軍飛行科予備学生時代の加藤曻さん

「いよいよ出撃のときが来ました。私たちの乗る『最上』は、決戦を控え、洋上で待機していた戦艦『山城』、次いで『扶桑』。この2隻の後について3隻で一直線にレイテ湾へと突入して行きました」

 戦闘開始である。加藤は飛行甲板に上がって見張り任務についた。すかさず米艦隊の駆逐艦が激しい攻撃を仕掛けてくるのを確認した。

「一斉に発射された無数の魚雷の影が、我々の艦隊に向かって突き進んでくる光景を今でもはっきりと覚えています」

 どんどん近づいてくる敵魚雷に対し、「我々の艦も高角砲や25ミリ機銃などで応戦しますが、それを突破した魚雷が、次々と味方の軍艦に襲い掛かっていきました」

 見張り番についていた加藤は冷静沈着に波しぶきを上げて接近してくる魚雷の影を追っていた。

「前を進む『扶桑』は、さすがに戦艦の貫禄でした。敵の魚雷数本の直撃を受けたのですが、しばらくは、びくともせずに持ちこたえていたのですから。しかし、やがて炎が弾火薬庫に移り、誘爆。大爆発を起こしました。その後、大炎上し、真っ黒い煙を上げながら、ゆっくりと沈没していきました」

 加藤が体験する地獄絵図のような海戦は、まだ始まったばかりだった。

「さらに、空爆にさらされた『山城』が、しだいに速力を落とし、敵艦隊につかまると集中砲火を浴び、被弾した艦橋が轟音を立てながら崩れ落ちていきました」

 米艦隊の情け容赦ない猛攻は止まなかった。

次の記事に続く 「みんな、血まみれで亡くなっていた」味方の軍艦同士の衝突事故も…旧日本軍将校が振り返る“史上最大の海戦”の惨状

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