第二次世界大戦末期、旧日本軍は「ゼロ戦」などの戦闘機による体当たりの特別攻撃、「特攻」を実施した。航空機によるものだけで死者は4000人にのぼるとされる。

 1944年12月に「菊水特攻隊」の一員として陸軍一〇〇式重爆撃機「呑龍(どんりゅう)」に乗り込んだ中村真さんは、数少ない生還した特攻隊の一人だ。特攻作戦前夜~当日のようすを『生還特攻 4人はなぜ逃げなかったのか』(戸津井康之著、光文社)から一部抜粋し、お届けする。(全3回の1回目/続きを読む)

中村さんが1943年に赴任した、旧満洲の教導飛行第九五戦隊の編隊(写真は1944年のもの、書籍より転載)

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 基地の兵舎で体を休めていると、戦隊本部にいる週番の兵長が、中村たち爆撃機搭乗員を呼ぶ大きな声が聞こえてきた。

「なにごとだ。こんな深夜に召集か?」

 戦隊本部に駆け付け、中村たちが整列すると、兵長が静かに命令を伝えた。

「明日の攻撃隊の搭乗区分を申し上げます。隊長機(1番機)、機長、丸山……、正操縦士、橘軍曹……。続いて2番機、機長、藍原少尉、正操縦士、中村軍曹……」

 2番機の操縦士として自分の名が呼ばれるのを中村は確かに聞いた。搭乗区分の告示には、もう慣れている。だが、「今回は、どうもこれまでの出撃命令とは違うな……」ということが、この深夜の異例の発表から分かったという。

「これまでは夜間爆撃ばかりでしたが、日中に飛ぶということですからね」

 だが、とくに驚きも動揺もしなかったという。中村は、「このとき」が来るのを覚悟していたからだ。

「いよいよ明日は特攻か。このところ、基地を飛び立って行ったきり、帰ってこない隊員が増えてきたからな。そろそろ自分の順番が来るころだとは思っていたが」

 兵舎に戻るとすぐに家族あてに遺書を書いた。