第二次世界大戦末期、旧日本軍は「ゼロ戦」などの戦闘機による体当たりの特別攻撃、「特攻」を実施した。航空機によるものだけで死者は4000人にのぼるとされる。

 決死の覚悟で作戦に臨んだパイロットの中には、わずかながら生還した人もいる。しかし、帰還兵たちが直面したのは厳しい現実だった。『生還特攻 4人はなぜ逃げなかったのか』(戸津井康之著、光文社)から一部抜粋し、「菊水特攻隊」の一員として出撃した後に生還した中村真さんのインタビューをお届けする。(全3回の3回目/最初から読む)

パイロット時代の中村真さん。1942年に浜松基地で撮影したもの(書籍より転載)

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 1945(昭和20)年8月15日。オーストラリアの捕虜収容所で、中村は戦争が終わったことを知る。それから、さらに約7カ月間、収容所で過ごした後、中村は復員船に乗り、約1カ月かけて日本へ帰ってきた。

 郡山の実家近くに辿り着いたときには、もう日が暮れていた。辺りはすっかり暗くなり、灯りが漏れる実家の窓をのぞきながら、しばらく家の周囲を歩いていたら、「真(まこと)かえ?」と家のなかから呼びかける母の声が聞こえてきた。

 顔を見なくても分かる、その声は間違いなく懐かしい母の声だった。

「そうです。真です。只今、帰りました」。縁側の窓の外から中村が、こう答えると、勢いよく雨戸が開け放たれ、母が縁側へ飛び出してきた。

「真だあ、真だあ……」

 母はうわごとのように何度も中村の名前を叫びながら、その場に座り込んでしまった。家の奥で寝ていた父が寝床から、「真か、真なのか! お前は陸軍少尉になっているぞ!」と大きな声で叫んでいた。父は中風で倒れ、寝込んでいたが、息子の帰還を心から待ち侘びていたのだ。

自分は「死んだ」ことになっていた

 あの12月14日、中村が「菊水隊特攻」で出撃した日。

「特攻により中村真は戦死しました」

 そう陸軍から、福島県の中村の自宅へ報告が届いていた。

「すぐに私が陸軍少尉に特進したことと、功四級勲六等旭日章授与が内定したことを知らせる通知が自宅へ届いていたんですよ」と中村は苦笑しながら説明してくれた。「少尉になっているぞ」と故郷へ戻った日に父が叫んだのは、この通知のことだったのだ。

 すでに実家では、中村の葬式が営まれた後だった。