第二次世界大戦末期、旧日本軍は「ゼロ戦」などの戦闘機による体当たりの特別攻撃、「特攻」を実施した。航空機によるものだけで死者は4000人にのぼるとされる。
1944年12月に「菊水特攻隊」の一員として陸軍一〇〇式重爆撃機「呑龍(どんりゅう)」に乗り込み、生還したのちに米軍捕虜となった中村真さんのインタビューを掲載した『生還特攻 4人はなぜ逃げなかったのか』(戸津井康之著、光文社)から、壮絶な現場のようすをリポートする。(全3回の2回目/続きを読む)
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敵戦闘機の執拗な追撃は続いた。味方戦闘機の護衛のない丸腰の500キロ爆弾を搭載した重い「呑龍」は、次々とP-47から銃弾を撃ち込まれ、撃墜されていった。
「ついに編隊で最後まで残ったのは私の2番機のみになりました。旋回や急降下で敵の射撃をかわしましたが、左エンジンが被弾し、止まり、右エンジンのみの片肺飛行でしのぎましたが、もはやここまで……。左旋回ができないまま、機体は高度を下げ、何とか海面すれすれを飛んでいました」
ついに、ここで死ぬのか……。そう覚悟を固めたときだった。
操縦席の風防(キャノピー)の後方部を撃ち破り、敵機の銃弾が飛び込んできた。風防の破片が飛散し、中村の身体に後ろから降りかかってきた。中村は思い切り操縦桿を胸に引き上げ上昇を試みたが、右エンジンの出力は限界に達していた。
「耳元で爆音が炸裂し、目の前から計器盤が消し飛びました」
最後の1機となった2番機も、ついに海へ墜落したのだ。
「このままだと海面で大爆発し、大炎上だ……」



