不時着できたものの「抗日ゲリラ」に捕らえられ……

 そう覚悟したが、機体は誘爆を起こさず、しばらく浮いていた。中村の決死の操縦で、重い「呑龍」を何とか海面に不時着させたのだ。生き残った隊員が数人、機体から翼の上へ滑り出て脱出し、機体を離れて海を泳いでいくのが見えた。

「機体はすぐに沈んでいきました。私は海面に浮いていた機体の破片につかまって漂流していました」

 しばらくすると数隻の小さなカヌーに分乗したフィリピン人が、墜落した機体から流れ出てきた物を拾うために近づいてきた。中村が手を振って合図すると、「オオ。トモダチ!」と男たちが片言の日本語を話しながらカヌーで近づいてきた。

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 中村は、「サンキュー」と言って、男に手を差し出し、カヌーに引き上げてもらった。

「ああ、何とか助かったぞ……」

 そう安堵したのも束の間で、カヌーの男たちは機銃を突きつけながら、中村を縄で縛り上げていった。

 男たちは抗日ゲリラだったのだ。中村たちは捕虜として、そのまま米軍に引き渡され、オーストラリアの捕虜収容所へと移送された。

飛行服姿の中村真さん。1944年、東京・立川の基地で撮影したもの(書籍より転載)

捕虜はみんな偽名を使っていた

「連日、尋問されましたが、本名など教えませんでした。日本兵は皆、偽名を使っていました。捕虜同士で呼ぶときも、それぞれのあだ名を使うのです」

 その捕虜のなかに「ゼロ戦」の操縦士がいた。

「彼のあだ名は“ムサシ”でした。私ですか? “どんさん”です。“呑龍”の操縦士だから。みんなから“どんさん”と呼ばれていたんですよ」と、中村は笑いながら教えてくれた。

 編隊を組んでいた僚機の「呑龍」がすべて撃墜され海面へと墜落……。残された、ただ1機の「呑龍」も左エンジンから真っ赤な炎を噴き上げ海面すれすれを飛んでいる……。

 中村が筆者の目の前に広げて見せてくれた一枚の水彩画は、絵心のある中村が、この日の特攻の様子を描いたものだった。この墜落寸前の“瀕死の状態”にある「呑龍」の操縦席では、若き日の中村が、歯をくいしばりながら操縦桿を握っているのだ。

 水彩画を見ながら、その中村の必死の形相が、目の前に突きつけられてくるように感じた。