多くの帰還兵が冷たい対応をされていた

 中村だけではない。取材した多くの帰還兵たちは、皆同じような冷たい対応をされたと証言している。

 見ず知らずの人ではない。人を教え導くことが仕事である自分の学校の恩師、教育者でも、こんな手のひらを返したような姿へと変貌していたのだから。

「この国は、戦争で負けてあまりにも多くのものを失ってしまったのか」と中村はやるせない気持ちになったという。その後、中村は特攻や戦争体験について、「もう話すことはよそう」、そう決めたという。

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 しばらく地元・福島で過ごしていた。伯父を頼って司法保護団体で1~2年ほど働いていたこともある。しばらく荒んだ気持ちにもさいなまれたが、元来、中村の性格は陽気で快活。持ち前のバイタリティーがあふれ出てきた。

「人生のやり直しだ。それなら、もう一度、この国のために働こう」

 そう思い立った中村は、警察官を目指し、試験を受けることにした。東京都の警視庁警察官採用試験を受験。見事、試験を突破した中村は重爆撃機「呑龍」の操縦士から、警視庁の警察官として生まれ変わり、第二の人生を歩み始めることになった。

 機動隊員に抜擢された中村は、その後も一貫して機動隊畑を歩む。1972(昭和47)年、長野県軽井沢で起きた連合赤軍による「あさま山荘事件」の現場へも、機動隊員として警視庁から応援で駆け付けた。

「警察官として32年間。定年まで勤めましたよ」

 日本にいる家族、国民の命を護ろうと、フィリピンで戦った爆撃機「呑龍」の操縦士は、戦後も、屈強な警視庁の機動隊員として、日々、国民の命と国の平和を護るために、生涯を捧げたのだった。

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