特攻前日、若い操縦士は何を思ったのか

「父と母の健康を祈り、妹には『良き日本の妻たれ……』。そんな内容の文章だったと思います」

 はっきりと文面の内容を覚えていないのは、特攻という認識が、「そのときそれほどなかったから」だとも。それもそのはずで、連日の夜間爆撃で基地へ戻ってこない僚機を中村は数多く見てきていた。“死”は日常だったのだ。

 その後、身の回りの自分の持ち物を整理して風呂敷で包んだ。

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「こんな遠く離れた南洋から、日本の実家に届くとも分からない遺品でしたが……」

 日付けが変わって14日午前1時を過ぎたころ、再び集合がかかった。中村たち搭乗区分に名前があがった隊員たちは飛行服を身に着け、戦隊本部へ向かった。戦隊長は搭乗員たちを前にこう告げた。

「この攻撃隊は特別攻撃隊『菊水隊』と命名せらる」

「やはり特攻だ」。隊員たちの顔に緊張が走る。続いて1番機の機長、丸山隊長が、搭乗員を前に、こう訓示した。

“赤とんぼ”と呼ばれる練習機で中村さんは操縦技術を学んだ。1941年、仙台の飛行場にて(書籍より転載)

隊長は「特攻しろ」とは指示しなかった

「各機、“確実な方法”で敵艦を撃沈せよ」

 このとき、中村は隊長の命令に違和感を覚えたという。

「隊長は“確実な方法”でと言い切った。“絶対に特攻して沈めよ”とは言わなかったのです」

 中村が正操縦士として乗る2番機には、ほかに通信員、機体前方と後部上方、尾部の銃座を受け持つ搭乗員が4人。計5人が乗ることになった。

「通常の飛行では『呑龍』には、正操縦士の隣に副操縦士が付くのですが、特攻だから最小限の編成にしたのだと分かりました。隊長機だけには6人が乗っていました」

 滑走路では整備士たちが、あわただしく出撃の準備を整えていた。

「機体に500キロの跳飛弾攻撃(水面を跳躍させて目標に当てる攻撃法。海軍では『反跳弾』と呼んだ)用の爆弾が積まれ、燃料タンクの3番は空にしていました。片道燃料だけで足りますからね」

「特攻で敵艦を沈めよ」とは言わなかった丸山隊長だが、出撃前にこんな行動を取ったという。