永には無理やり、付き人なし、マネージャーなしの一人旅をさせられたこともあったとか。そんな荒療治のおかげでもあるのだろう、後年、彼のラジオ番組にレポーターとしてレギュラー出演していた頃には、アポイントメントから取材まで一人でこなし、興味を持った人に直接ぶつかって話を聞くのが楽しいと思えるまでになった。

永六輔さん ©文藝春秋

 松島は1990年代から2000年代にかけて、日比谷公園に暮らすホームレスの人たちに興味を抱き、そのまとめ役の人に交渉して、一人ひとりと真摯に向き合って身の上話に耳を傾けたこともあった。その後、ニューヨークのホームレスにも取材し、『ホームレスさんこんにちは』(めるくまーる、2004年)という本にまとめている。

「覚えていらっしゃる?」美智子さまからの言葉に感激

 車椅子ダンスの競技者としてその普及活動に携わってもいる。発端は、体にハンディキャップを持つ人から車椅子ダンスの世界選手権に出場したいので、パートナーになってほしいと手紙で頼まれたことだった。2004年の世界選手権の会場には美智子皇后(現・上皇后)が訪れ、ご成婚前に子役時代の松島と雑誌で一緒に写真を撮ったこと(#1)を「覚えていらっしゃる? 46年前にお会いしてるのよ。あなたが花束を持ってきてくださって」と笑いながら話しかけられ、彼女は感激したという(『文藝春秋』2006年5月号)。

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松島トモ子〔2006年撮影〕 © 文藝春秋

 テレビ番組などで海外の著名人にインタビューする機会もたびたびあった。外国で人に会うときはできるかぎりその国の言葉を覚えていくというのが彼女の信条だ。旧ソ連大統領のゴルバチョフにインタビューしたときも、ロシア語で一緒にダンスを踊っていただけませんかとお願いすると、先方はのけぞったようなしぐさをしてから快く応じてくれた。そんなしぐさも、通訳を通して頼んだのではたぶん見られなかったと彼女は語る(『ひょうひょう』1999年7月号)。

松島トモ子オフィシャルブログ「ライオンの餌」より

 アトランタ五輪(1996年)の女子マラソン金メダリストであるファツマ・ロバに、その母国のエチオピアでインタビューすることになったときには、日本には同国の言語であるアムハラ語の辞書も教室もなく困っていたところ、ロバ選手が来日時に訪れたというエチオピア料理店を見つけ、そこのオーナーから教えてもらったという。