多くの火薬庫や烹炊所跡、そして…
トロッコ跡を歩き、トンネルで土堤を抜けると、最初に下りてきた場所の近くに出るが、土堤と山の斜面に囲まれているこの場所には、多くの火薬庫があった。
土堤は爆風等を防ぐため人工的に造られた土手で、危険地帯と安全地帯とを隔てる目的で設けられている。トロッコ跡はさらに続き、もう一つのトンネルに突入したが、反対側の坑口が閉塞しており、通り抜けることができなかった。
一旦供養碑まで戻り、今度は海から東の森に向かって歩くことにした。すると、うっそうとした木陰に、コンクリート造の建物が見えてきた。
外観も内部も、年月の経過を感じさせる。ここは烹炊所(ほうすいじょ)といわれる食事を提供するための場所で、調理場と食堂として機能していた。
ボロボロになっていたが竈(かまど)が残っており、往時を彷彿とさせてくれる。
事務所や詰所として使われていたレンガ造の建物
さらに奥へと進むと、レンガ造の立派な建物が現れる。発電所を連想させる意匠的な建物だが、これは事務所や詰所として使われていたもの。
さらに奥にもう一棟、同じレンガ造の細長い建物が続いている。こちらは砲弾等の速度を測る検測所だったようだ。
貴重な戦争遺跡が草木に埋もれている現状を残念に思う反面、人工物が朽ちて自然と融合しつつある姿に、心が揺さぶられた。
そして、検測所の奥には、山の斜面に口を開くトンネルらしきものが見えてきた。コンクリートで固められた大きなトンネルに見えるが、実はこれはトンネルではない。決定的にトンネルと異なるのは、二重構造になっていることだろう。高さ5メートルはあろうかという大きなトンネルの内側に、もう一つのトンネルがすっぽりと収まっているのだ。
この特異な構造物こそが、亀ヶ首発射場の心臓部ともいえる施設だ。当時最新の技術を用いた、砲弾の距離・速度・精度・威力等の検測がここで行われていた。二重隧道式の構造をしており、全国を見渡しても唯一無二の存在といえるだろう。巨大砲から発生する衝撃波は強烈で、1.5キロ離れた民家の襖をガタガタにし、障子紙を吹き飛ばしたという。そんな衝撃波を至近距離で受けるため、人員や測定機器類を守るために分厚いコンクリートの二重壁が必要だった。
隧道の奥行きは10メートルもないが、内部には測定機器類が設置されていたとされるコンクリートの支柱も残されており、非常に見応えのある施設だった。
元々隧道が好きな私としては、この二重隧道式構造が見たかったというのも、ここを訪れた動機の一つだった。これまでに多くの戦跡を見てきたが、初めて見る構造に興奮を隠せなかった。














