砲類が発射されていた東側の海には

 桟橋に戻り、先ほどよりも北側の平地を東に進むと、島の突端に近いためすぐに反対側の海が見えてきた。ちなみに砲類はこちらの東側の海に向けて発射されていたといわれている。

 東側の海の近くには、地面から掘り下げられた施設跡が残っていた。弾丸の破裂試験が行われていた地下弾丸破裂試験槽だ。

5メートルほどの深さがある地下弾丸破裂試験槽

 これで亀ヶ首発射場跡の現存する施設はひと通り見たことになるだろう。

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 呉海軍工廠の砲弾発射試験場は、元々本土にあったが、民家が近く危険なことから移転が検討された。そして民家や障害物がなく、機密を守りやすい亀ヶ首が選ばれたとされている。日清戦争後の明治33年に竣工し、昭和初期には戦艦「大和」「武蔵」に搭載される46センチ砲の性能試験も行われた。

検測所跡は樹木に覆いかぶさられていた

 ここまで、私が現地で見た施設跡をご紹介したが、亀ヶ首発射場に関する資料はほとんど残っておらず、詳細は明らかになっていない。明治34年の試験開始から昭和20年の終戦までの間に、日露戦争、二度の世界大戦も経て、多くの施設が追加され、各施設の役割や名称も変遷している。特に第二次世界大戦においては、亀ヶ首発射場の役割が増大し、毒ガス実験や人間魚雷“回天”の訓練も行われていたとされる。しかし、施設の大半は戦後に破壊されており、いまだ謎の部分も多い。そのあたりも加味してご理解頂けるとありがたい。

何のために戦跡が保存され、過ぎ去った歴史を学ぶのか

 戦時中には、火災や爆発事故で複数の犠牲者が出ており、「くらはし観光ボランティアガイドの会」が2006年に供養碑を建立した。2020年には、神奈川県横須賀市などと共に、鎮守府が置かれた旧軍港4市で認定されている日本遺産“日本近代化の躍動を体感できるまち”の構成文化財に追加認定された。

亀ヶ首発射場跡供養碑と南側にあるトンネルの内部。コンクリート巻きの堅牢な造り

 なお、冒頭で関係機関の方から「現地まで行く道はありません」「(現地に行くことは)お勧めできません」とアドバイスをいただいたとおり、現在、陸路で亀ヶ首発射場跡に到達することは困難だ。実際に藪漕ぎして訪れた私としても、お勧めできない。観光船を使ったツアーが月に一度程度、試験的に行われているので、どうしても現地に行きたいという方は、「くらはし観光ボランティアガイドの会」に問い合わせてほしい。

 

 私としては、構造物がカッコいいとか映える写真が撮りたいとか、どのような動機でもいいので、より多くの人に戦跡を見てほしいと考えている。直接行かず、ネットで画像を見るだけでもいい。そして、戦跡を通して、何かを考えるきっかけになれば幸いだ。

 何のために戦跡が保存され、過ぎ去った歴史を学ぶのか。より良い未来を築くために違いない。平和を願う人々の思いは、政治や思想など何の関係もなく、人類普遍の価値観だろう。

撮影=鹿取茂雄

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