宮田 でも「この人のこと、なんで推せないんだろう」って考えること自体が、「推したい」という欲求の裏返しで、すでに一種の推し活なんだと思う。哲学的ですけど。
小川 推しも好きも実はよくわからない心の作用なのかも知れませんね。宮田さんが『みんなで読む源氏物語』の中で、夕顔のどこが好きなのか自分でもわからない、でもそれが「好き」ってことなんじゃないかと書かれていたのが印象的でした。
「なぜ好きなのか」は、本人にもわからない。私もなぜフランケンシュタインをずっと「推し」ているのか、理由なんて説明できません。推せない理由を探ること自体が、もうその対象と深く向き合っていて、それもまた神秘的な関係性ですよね。
スケザネ なるほど。
わからないまま受け入れる――ネガティブ・ケイパビリティと創作
小川 宮田さんには推しの作家さんはいますか?
宮田 江國香織さんと千早茜さんが大好きで、とくに江國さんの作品はめちゃくちゃ読んでいます。小学生の頃からずっと愛読していて、なかでも『流しのしたの骨』が一番好きです。
小川 江國さんの文章ってとてもみずみずしいですが、宮田さんの小説『あやふやで、不確かな』などを読むと、江國さんの強い影響を感じていました。相手に一歩踏み込んで言えばいいのに言わせない空気感、登場人物が口ごもるような感じとか。
宮田 嬉しいです。その小説の登場人物たち――とくに成輝と桃果は、書いていて「なんでそこで言わないの!」って自分でももどかしく思うコミュニケーションばかりで。私の頭の中では彼らの役を与えた役者たちが演じているのですが、どういう解釈でそんなシーンになったのか? 彼らと対話をしながら深めて小説にしています。あの章は本当にわからなすぎて、執筆に1ヶ月以上かかりましたね。
小川 どうやって対話を重ねて小説を書いているのかを今回の本で明かしていて、とても興味深かったです。成輝のシーンに象徴されるような、「はっきりさせない」「わからないものをわからないまま抱えておく」力は、まさにロマン派の詩人キーツが提唱した「ネガティブ・ケイパビリティ」だと思います。モヤモヤしたものをそのまま受け入れる力。
宮田さんは『源氏物語』の読解でも夕顔の和歌の「それ」が誰を指すかについて、通説に依拠せず、「自由な解釈の可能性を楽しみたい」と書かれていましたね。そんな、あやふやで不確かなままにしておく感性が、小説における“口ごもりの技法”を生み出しているとも思いました。
スケザネ それでいうと、文学を読むという営み自体が、ケアのあり方と似ている気がします。こちらからすぐ解釈とかを投げかけるのではなく、まず物語が何を言ってくるかをじっくりと待つ。わからないものはわからないままにして相手の出方を待つ。
今回の小川先生の『ケアの物語』も、フランケンシュタインという物語が語り出すことを我慢強く聞き続けた果てに、では何が言えるのだろうというところから書かれた本だと感じました。文学を読む態度そのものがケアのあり方になっているんですね。

