なぜ外堀に線路を敷いたのか

 なぜ外堀の中などという、一風変わったところに線路を敷いたのか。それは堀川駅の西を流れる堀川の水運と連絡するためだ。

 いくら名古屋の都心に乗り入れたところで、それが栄であってはあまり意味がない。まだまだ都市部でも水路を用いた水運が盛んだったその時代、堀川の水運との連絡はいちばんの優先事項だった。

 

 瀬戸の町で作られた陶磁器は瀬戸電気鉄道の電車に乗って堀川駅まで運ばれて、船に積み替えて堀川を下って名古屋の港まで。

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 大正時代、瀬戸電気鉄道の貨物輸送のうち8割までが窯業関係だったという。

 

 ただ、いくら当時が文化財保護など一顧だにされない時代であっても、外堀の中に電車を走らせるには苦労もあったようだ。何しろ外堀の北側は陸軍の管理地だった。だから軍部との折衝を重ねることになった。

 陸軍が“お堀電車”を許可したのは、沿線の守山に歩兵連隊が置かれていたことと関係しているのかもしれない。

 

名古屋の歴史に刻まれた“発展の軌跡”

 ともあれ、開業したお堀電車は八面六臂の活躍で製品や原材料を運び、瀬戸の窯業の隆盛に貢献した。

 瀬戸という都市が陶磁器の都市として押しも押されもせぬ地位を築いた背景には、お堀電車と堀川駅というターミナルの存在が欠かせなかったといっていい。堀川駅は、“せともののターミナル”だったのである。

 

 さらに堀川駅の近くに路面電車の停留場ができると、交通結節点としての役割も持つようになる。

 堀川を渡った西側には旧美濃路、古い蔵造りが残る四間道や円頓寺の商業地が発達してゆく。大正から昭和にかけての堀川駅は、紛うことなき名古屋の町のターミナルだった。