あの日、被爆した山崎さんが向かった先

 これは昔の戦前の広島の写真なんですけれども(学生に向かって、壇上に映し出された古い写真を示し)、真ん中にチンチン電車が走っていますが、その左側の後方が現在の平和公園です。この公園のあたりは元々5つの町があって、天神町北組(てんじんまちきたぐみ)という町に山崎さんは住んでいました。

 原爆が投下されたときは、山崎さんは代用教員(学校の先生の補助)だったので、その仕事をするために、たまたま爆心から1.5キロ離れた観音地区に行っていました。山崎さんはあの日被爆して、ものすごい怪我を負いました。手が動かないくらいのひどい火傷もしてはいるのだけど、命はなんとか助かった。それで、原爆の途方もない高熱で焼かれている火の海の中を、もう一生懸命、「家に帰らなきゃ、家に帰ったらみんながいるから」と思いながら、今は平和公園になっている場所、つまり自宅を目指して帰って行ったのです。

 ところが、帰ってみれば何ひとつない。そこにあった町がすべて消えている。家族もそこにいるはずだったのに、姿が見えない。きっと帰ってくるだろうと思って、おなかがすくので元安川のザリガニを食べながら、何日も何日も、ご家族の帰りを待ったそうです。でも、とうとう、弟のように可愛がっていたいとこが一人だけ戻ってきましたが、ご家族は帰ってきませんでした。

ADVERTISEMENT

広島市関係図(1945年8月6日)。爆心地のすぐ近くに、元安川が流れている。また、宇品港(現・広島港)のすぐ南に位置する似島には、被爆者が大勢運ばれた。(地図制作・上楽藍)

「平和公園」だと思っていた場所のベンチで、この話を伺ったときに、今までは怖くて苦しくていやだった被爆証言というものが、「あぁそうか、自分につながる人たちに起きた話なんだ」という、頭では分かっていたことが心にようやく落ちた、という感じだったんですね。

 いまの私たちが知っている公園は「平和公園」なんですけれども、実は被爆をした焦土の上に、何層も何層も土を入れて、コンクリートで固めてできた公園なんです。ということは、今でも掘り起こせば、人骨が出てくるはずです。たくさんの方がどうなったのか分からないまま眠っている――そういう場所であるということを、まず皆さんと共有したいなと思います。

ある晴れた夏の朝 (文春文庫)

小手鞠 るい

文藝春秋

2024年7月9日 発売

増補新訂版 アンネの日記 (文春文庫)

アンネ フランク,深町 眞理子

文藝春秋

2003年4月10日 発売

収容所(ラーゲリ)から来た遺書 (文春文庫)

じゅん, 辺見

文藝春秋

1992年6月10日 発売

次の記事に続く 堀川惠子さんが中高生へ語る「原爆が落ちたあの日、広島で一体何が起きたのか」【全3回の2回目】