テレビ局の記者が出会った運命の人
皆様、こんにちは。堀川惠子と申します。今日は本当に暑い中、わざわざ来てくださってありがとうございます。私は広島生まれの広島育ちで、34歳まで広島のテレビ局で記者をしていました。今55歳になりましたけれども、もちろん全く被爆体験はありません。今日こうしてこの場に立って、ああとうとう、何も知らない体験者でもない私が、さらにもっと知らない皆さんに体験を伝えていかなきゃいけない、そんな時代が来たんだな、と思いながら、感慨深く思っています。
私が広島テレビの記者になって2年目のことでした。それまで小さい頃から、広島生まれですから、原爆の事とか被爆者の方の話を沢山聞かされてきて、その度に、もういやだな聞きたくない、もうしんどい辛い怖い苦しい悲しい……と思っていたんですけど、そんな私に「あ、これは、人生をかけて取材しなきゃいけないテーマだ」と思わせてくれたのが、山崎寛治(かんじ)さんです。1994年に出会って、(壇上に映し出された写真を示しながら)この写真は山崎さんを最後に撮ったもので2016年の夏でした。24年間、お付き合いしたことになります。
山崎さんが待ち合わせに指定した平和公園のベンチ
広島で記者をするということは、たとえば皆さんがテレビでよく見るように、被爆者の方の被爆証言だけを聞き取る、ということだけではなくて、その人の人生に一緒に“伴走”というとちょっとおこがましいんですけど、一緒に人生を歩んでいく、そんな活動でもあるわけです。
それで、この山崎さんと一番最初に、さぁどこでお会いしましょうか、という話になったときに、待ち合わせの場所を指定されて、「平和記念公園の元安川(もとやすがわ)沿いの、東から2つめのベンチに来てください」と言われたんです。
私はとてもおおざっぱな人間なので、「なんか随分細かい人だなぁ」と思って、大丈夫かなって思いながら、そこに行きました。
それで、山崎さんと会って話をしたわけですが、最初に言われた言葉は、
「ここはね、ぼくの家があった辺りなんだよ。ここ、ぼくんちだよ」
って、おっしゃるんです。
私にとってここは、「広島平和記念公園」でした。実は、山崎さんにとっては、原爆が投下されるその日まで、「家族と一緒に暮らした自宅があった、彼の故郷(ふるさと)」でした。

