地下室に眠っている人々の数

 供養塔の地下室に降りていきますと、昭和30~40年ごろは亡くなった方のお一人お一人の名前が貼られた木箱がありました。また、大きな木箱には、「原爆死没者遺骨 氏名不詳 似島」などと書かれた名札が貼られていました。原爆が投下され、広島に大惨事が襲ったとき、似島は被爆した重傷者が大勢運ばれた島です。これらの大きい木箱の中には人骨が白い砂のようになって堆積しているそうです。実際に見た人から聞いたんですけれども、その一つの箱に2000人から3000人分の遺骨が納められている。手ですくってみると、貝殻のように、さらさらーっと手の隙間から落ちていったそうです。

 これとは別に軍隊の印字がされた封筒もあって、その封筒の中に、数十人ずつの遺骨が納められている。で、なんとですね、この供養塔に眠っておられる方々の数は、7万人と言われています。皆さん、7万人の行方不明者っておかしいと思いませんか? 原爆というのは、大変な被害をもたらしたということが分かっていただけると思います。

(写真:文藝春秋写真部 榎本麻美)

 それで、原爆供養塔に眠っている7万人のうち、完全にお名前が分かっている方が812人、現在いらっしゃるんですね。今年6月、名前が分かっていながら引き取り手が見つからない812人の遺骨者名簿は、「遺族を探しています」ということで、広島市から全国の自治体に発送され、掲示されています。

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 広島市が遺骨者名簿を作り始めたのは昭和43年からなんですが、名簿には亡くなった方のお名前だけではなくて、住所、番地、それから例えば福島県から沖縄県まで全国に散らばる本籍地がきちんと書かれている。

 こんな情報があるのに、引き取り手がないなんておかしいと思いませんか? と私は思って、原爆供養塔の取材を始めたんですけれども、私よりもはるか先に名前が判明しているご遺骨をご家族のもとに返そうと活動されていたのが、もうお亡くなりになられた佐伯敏子さんという方です。佐伯さんは名簿の住所を訪ね歩いて、お一人お一人遺骨をお戻しする活動をされていました。私が佐伯さんに初めて出会ったのは、1993年、平和公園の原爆供養塔の前です。後年、私が取材したときには高齢者保健施設に入られ、ほとんど寝たきりでいらしたんですけれども、「今でも、これはちゃんと考えなきゃいけない問題だよね」と佐伯さんは繰り返し私に言われました。

“広島の大母(おおかあ)さん” と呼ばれた佐伯敏子さん(左)と堀川惠子さん(高齢者保健施設にて撮影)。佐伯さんは供養塔に眠る人々と向き合い続け、人生を捧げた。(写真:堀川惠子所蔵)

 私たちは「被爆から何年経った」って言います。60年、70年、そして今年は80年ですよね。「生きている人は年を刻んでいくけれども、この原爆供養塔に眠っている遺骨になった人たちは一秒たりとも時間は過ぎていないんだよ。みんなあの日のまんまなんだよ」と佐伯さんに言われたとき、本当に胸がつまる思いがしました。

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次の記事に続く 堀川惠子さんが中高生へ語る「原爆が落ちたあの日、広島で一体何が起きたのか」【全3回の3回目】