長野オリンピックのポスターを手掛け、洋画家として活躍した絹谷幸二氏が8月1日に死去した。絹谷氏は今年6月、長嶋茂雄の死去について「文藝春秋」の電話取材に応じていた。油絵を共同制作したこともあるという長嶋の横顔を、絹谷氏の発言から振り返る。

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 1980年代の終わり頃、あるスポーツイベントでテレビ局の人に長嶋監督を紹介されました。

 お目にかかった瞬間、監督の方から「絹谷さん、私、絹谷さんのファンですよ」と声をかけられました。

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絹谷幸二氏はミスターから「ファンです」と声をかけられた(絹谷氏提供)

 監督は現役時代、在籍10周年の記念に球団からもらった賞金で、私の師匠である林武先生の絵を購入されたとのこと。若い頃から絵画への造詣が深かったのですね。その林先生の弟子というつながりで私のことを知ってくれたそうです。「ワンちゃん(王貞治さん)も絵が好きなんだ」とも言っておられました。

 奈良で野球少年として育った私は大の阪神ファンだったのですが、天下の長嶋監督の「ファン」という一言で、大の巨人ファンに宗旨替えしました。

 それからは私の展覧会があれば必ず足を運んでくれましたし、互いの夫婦でよく食事もしました。私の絵からパワーをもらっていると言い、大切にしてくださいました。

 私が少年時代に、大リーグのスーパースターだったジョー・ディマジオに会ったとお話ししたことがあります。マリリン・モンローとの新婚旅行で来日した際、奈良を訪れて野球指導をし、私の実家の料亭にやってきたのです。監督にとってディマジオは目標だったそうで、感慨深そうに「本当は私もサードではなく、ディマジオと同じセンターを守りたかったんですよ」と言っていました。

世田谷美術館での展覧会で(絹谷氏提供)

 また、箱根カントリー倶楽部に連れていっていただき、ゴルフをご一緒した時のこと。気持ちよくプレーを終えて「監督、またお願いしますね」と挨拶すると、「はい、わかりました」。

 それから日をおかずしてお電話をいただいたので、また一緒に回らせてもらえるのかなと思ったら、「箱根カントリーの入会手続きに必要な推薦状を書いたから取りにきてください」と。思いがけない展開に驚きつつ推薦状をいただきに上がると、監督の直筆が達筆でね。気遣いの細やかさとともに、監督は字もお上手なのかと感動したものです。

※本記事の全文(約1600字)は、月刊文藝春秋のウェブメディア「文藝春秋PLUS」に掲載されています(絹谷幸二「赤富士と太陽」)。

文藝春秋

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赤富士と太陽

出典元

文藝春秋

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