昨年8月、希少がんである乳がん“浸潤性小葉がん”のステージ3であることを公表した、梅宮アンナさん(52)。現在は、母のクラウディアさん(81)と、ときどき米国から帰国する娘の百々果さん(23)、そして今年5月に再婚した世継恭規さんと生活をともにしながら、治療と仕事を両立させている。
今回は2019年に慢性腎不全のためなくなった父・梅宮辰夫氏(享年81)について、語っていただいた。(全3回の2回目/続きを読む)
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パパから聞かされたがん治療
がんについても、早いうちからパパから教わってきた。
小学校2年生あたりまで、パパと一緒にお風呂に入っていた。あるとき、パパが自分の胸を指差して、こう言ったことがある。
「アンナ、パパの胸に手を置いてみな」
「ここが肺がんだった場所なんだけど、硬くなってるだろ」
「がん細胞ってのを焼いてやっつけたんだけど、焼け焦げた細胞がパパの体から逃げ出したくて『出たいよ~、出たいよ~』ってドンドンやってるんだ。それで硬いんだよ」
まわりの皮膚とはあきらかに違う感触、「肺がん」という言葉から放たれるなんともいえない重たい雰囲気に気圧されて、ワンワン泣いてしまった。やはり小学生のときに、何度も抗がん剤を打ち、通常の3倍もの量の放射線治療を受け、肺がんに打ち勝ったことも聞かされた。
知り合いの娘さんががんになったとき、パパは自分がお世話になっていた病院や先生を紹介していた。そのほかにも、誰かががんになったと聞いたり、相談されたら、つなげてあげる姿を何度も見ていた。
私が高校生になってからは、パパは半年に1回、胃カメラ検診を受けていた。がんは早期発見、早期治療が大切だと考えていた、パパらしい習慣だった。通っていたのは、神宮前にある岡本平次クリニック。内視鏡医の神様みたいな先生の診療所で、パパはそこもよく人に紹介していた。
「おい、見てみろ」
「小梅ちゃん、小梅ちゃん」
胃カメラ検診に行くと、必ず内視鏡で切除したホルマリン漬けのポリープをお土産に持って帰ってくる。ジャム瓶のなかに漂っているポリープは、色といい大きさといい、たしかにキャンディーの「小梅」そっくりだった。
ホクホク顔で瓶をのぞくパパとは対照的に、私とママは「見てみろと言われても……」という顔をしていた。私たちの反応が鈍かったせいなのか、パパ自身がだんだんと飽きてきたのか、収穫したポリープをお土産にすることも減って、どこで処分したのか溜まっていたポリープの瓶もいつしか見ることがなくなった。
