手紙には「出所したら、また会えませんか?」みたいなことが書かれていて、私なんか「パパ、いまもだまされてるの?」とカッカしているのに、パパは「手紙ぐらいよこしてきたっていいだろ」と妙に余裕だったりする。
誰かにだまされても「まあ、しょうがない」というスタンスで、お金を取られているのを見るたびに私はイライラしていたものだった。
家賃を払えず、一家3人でアパート暮らし
肺がんになったころも、「うめみや」というクラブを開いて他人に任せて、トラブルを起こされた末に1000万円を失っている。きわめつけは、私が川村小学校に入学するちょっと前に盛大にだまされて、住んでいた松濤の家の家賃を払えなくなった。
松濤の家は、ものすごく広い庭のある平屋だった。そこの地主さんが一帯まるごとマンションにするということになって、優先的にマンションを分譲で買わせてもらって越した矢先に、お金をだまし取られて住むことができなくなった。そこに住んだのは、わずか3ヶ月ほど。
ほうほうのていで引っ越したのは、参宮橋のアパート。間取りは3LDKのメゾネット。メゾネットなんて聞こえはいいけど、玄関を開けたら即リビングといった感じで古くて狭かった。小学校の6年間、そこに暮らしていたが、まさに梅宮家の氷河期といっていい。
私が通っていた幼稚園は、若葉会幼稚園。三井財閥が開いた幼稚園で、同級生に正田家の子がいるようなとんでもないところだった。誰かのお誕生会なんていうと、その子のお屋敷かどこかの会場を借りて同級生たち全員を招待するのが当たり前。
梅宮家も、松濤の家の広い庭に「月組さん、星組さん、おうちにきてね」とお招きしてバーベキューやパーティーを催していた。そんなことができた庭の広い松濤の家もお金の余裕がなくなり、手放すしかなかった。“都落ち”なんて言葉は知らなかったけど「前のようなことは、もうできないんだな」と感じていた。
川村小学校には通わせてもらえていたし、“住めば都”で参宮橋の家にも町にも慣れていった。だけど、3年生か4年生あたりで「うちに友だちを呼べないな」と恥ずかしくなってしまった。いま思えばパパにたいへん申し訳ないけど、川村小学校もお嬢様が集まる学校だけに、どうしても同級生の家にお呼ばれするたびに自分の家と比べてしまっていた。
梅宮家の氷河期だった6年間だが、パパはまったく腐ることがなかった。それも育ちが良かったからこそ。良識と常識のある人だった。
