やがて鵜野は、連隊本部に設けられた捕虜収容所の所長も兼任する。ここには常時60人から120人の中国人捕虜を収容していたが、食事も満足に与えず、冬季に備えての防寒にも注意は払わなかった。
餓死したり、凍死をしても、ことさら人間的な感情はなかった。すべてはお国のため、このような扱いをすることこそ日本軍のためになる、と信じきっていたのだ。もしこのような態度をとっていなかったら、自分は「栄光ある日本軍の将校」ではないとさえ考えていた。
将校は食事も十分与えられ、加えて慰安施設もあった。そこで憂さを晴らした。ところが兵士は粗末な食事で、慰安施設もない。そのために掃討作戦という名目で、しばしば農村を襲った。将校が兵士たちの強姦も黙認し、略奪を見て見ぬふりをしたのも、そういう日本軍の将校主導の体質のためだった。
捕虜の虐待、非戦闘員の殺害…鵜野が行った残虐行為の数々
瀋陽の軍事法廷で裁かれた8人のなかで、鵜野はもっとも年齢が若く、階級も低い。にもかかわらず、大物のクラスに組み入れられたのも、ひとえにその行為が悪質と断定されたからだ。
鵜野の起訴状には主な残虐行為5件が記されている。
「1943年4月、被告人は第39師団第232連隊第2大隊情報宣撫主任として、湖北省宜昌県天宝山において平和的住民余立徳を殺害し、平和的住民廖雨成に傷を負わせるとともに、わが捕虜7名を殺害した。この犯罪行為は、被害者の親族余宝三の告訴、地元の住民別長金の証言および調査資料(調査尋問記録二部)によって証明されており、被告人もまた事実であることを承認している」
「1944年4月から12月までのあいだ、被告人は連隊本部情報宣撫主任として当陽県において、あい前後してわが捕虜3名と平和的住民夏成保、陳国元、張啓発ら12名をみずから斬り殺した。そのうち、当陽県の飛行場付近だけでも1回に平和的住民9名を斬り殺している」
「1943年6月から1945年5月まで、被告人は湖北省当陽県の捕虜収容所を管理していたあいだ、わが捕虜200余名を残酷に虐待し、酷使し、彼らを過重な軍事的強制労働に従わせるとともに、またつねに殴打し、飢え凍えさせるなどの虐待により、わが捕虜鄧書清ら55名を死に至らしめた。また1944年11月にはわが捕虜薛樹廷、陳金の2名を斬り殺した」
鵜野の起訴状には、同僚の将校や部下の名もあげられていて、彼らが鵜野の行為を内部告発して自らの命を守ろうとした節もうかがえる。
この点について鵜野は弁明していないが、残虐行為は広く日本陸軍内部で行われていたにしても誰かが責任をとらなければならないことであり、戦犯だけが残虐行為を行ったり、命令したということではないとのニュアンスが言外にあった。



