中国の戦犯裁判は、主に1940年代に入ってのものであり、1937年の南京虐殺などは法廷にもちだされていない。それは東京裁判で裁かれたという理解のためだろう。

 敗戦直前、鵜野の部隊は関東軍に組み込まれ、旧満州に移った。

 そのため、敗戦によって、鵜野もシベリアに送られた。中央アジアのカラガンダで強制労働に従事し、1950年に中国に戦犯として連行されたわけである。

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 のちにわかったことだが、中国は日本軍のなかでも第39師団、第59師団、第137師団、関東軍731部隊の残虐行為が顕著だったとして、これらの部隊の幹部や残虐行為を働いた兵士などを集中的に調べてソ連側にその幾人かを引き渡すよう求めていた。ソ連もそれに応じて、日本への帰国コースを中国に変更して引き渡したのである。

 この間に、中国側がマークした軍人は、すでに日本に帰国していたり、あるいは敗戦時の混乱に乗じて日本に逃げのびた者もいる。なかには名前を変え、戦時下の残虐行為がわからないよう息をひそめて生きた者もいるし、終生隠れるように生きた者もいる。

 鵜野はそれらの人物の名を次つぎと何人もあげ、彼らは残虐行為にうなされて、いまなお苦しんでいるはずだといっていた。

 旧日本軍の蛮行は、歴史のうねりのなかに消えているわけではない、と鵜野は強調していた。

「南京大虐殺記念館」で公開された犠牲者の白骨遺体 ©時事通信社

戦犯たちは中国軍人の前で自分の過ちを告白させられた

 中国の撫順戦犯管理所は、旧満州国が東京の小菅刑務所と同じ設計で建設した建物である。大部屋、中部屋、それに独房などがあるが、初めの3年余はここに収容されて自由に話し合う期間だった。

 大部屋の15人ほどが自分の体験を詳細に語り、兵士としてどのような生活をしたか、どういう戦闘をしたかを、革命委員会から派遣された政治将校を前に討議する。中国側はそのすべてをメモにとっていた。

 この「評批」運動は、「担白」(自分で自分の罪を心底から告白する)ともいわれ、当初は誰もが自分に都合のいいことしか話さなかったが、しだいに自分自身の行動を自省する告白となった。

 3年余が過ぎて、革命委員会派遣の政治将校も少しずつ口をはさむようになった。

 いつも自分は残虐行為を働いたといって、中国人民に謝罪することに熱中する戦犯がいた。自分は新聞記者で中国侵略の情報戦に参加したといいつづける者もいた。政治将校が「ウソをいいつづけるのはよしなさい」と諭した。

 誇大に残虐行為を告白すれば、その反省も認められると考えた将校や、日本の軍法会議で罪を受けた下士官で偽りの告白をして中国側の目をごまかそうとした者もいたのである。

次の記事に続く 「あの大虐殺を認めない発言は不勉強」日本兵が中国人を次々と殺害、強姦した「南京大虐殺」日本軍の“戦犯”が語った“蛮行”の実態