この南京大虐殺については、私は、昭和陸軍の病理的体質という視点から徹底的に検証を加えなければならないと思う。南京大虐殺があったか否かという問題ではなく、昭和陸軍はなぜ、あのような蛮行を働いたのかという視点である。南京の紀念館の張館長の発言、さらには李研究員のリポートなどはその際の資料にはなり得る。
断罪された“野戦の将軍”
瀋陽の軍事法廷で最高刑の禁固20年の刑を受けたのは、陸軍中将の鈴木啓久であった。
陸軍士官学校を卒業したこの高級軍人は、関東軍第2独立守備隊独立守備歩兵第12大隊長(大佐)、第15師団第67連隊長(大佐)、第27歩兵団長兼唐山地区防衛司令官(少将)、独立歩兵第4旅団長(少将)、第117師団長(中将)など一貫して戦線を回り、“野戦の将軍”として昭和陸軍の栄達の道を歩みつづけた。
昭和陸軍の軍規粛正にはもっとも責任を負わねばならない軍人であった。しかし、昭和陸軍がこうした国際法に無知な将官に支えられていたところに問題があった。
特別軍事法廷の判決文は、鈴木に対して次のように決めつけている。
「中国にたいする侵略戦争を遂行し、国際法の規範と人道主義の原則を踏みにじり、その配下の部隊を指揮命令して、無住地帯をつくり、わが国の都市や農村を破壊し、わが平和的住民を追いたて、惨殺、虐待し、わが国人民の財産を略奪、破壊し、毒ガスを放ち、わが平和的住民を軍事的強制労働に徴用し、部下が婦人を強姦するのを放任するという罪を犯している」
この判決を鈴木は甘んじて受けると申し出ている。
昭和36年(1961年)、鈴木は刑期の途中で日本への帰国が許された。「一度は死んだ身、自分は日中の橋渡し役になる」と漏らしていたが、まもなく体が弱まり病死している。平成3年当時、8人のうち6人は死亡、第731細菌部隊の1人は戸籍も名前も変えてひっそりと生きている。鵜野もその1人と会うことはない。
撫順戦犯管理所の看守、政治将校、看護婦が、かつての戦犯たちの招待で、ときおり日本を訪れる。しかし彼らは、かつての蛮行は決して口にしない。戦犯たちもそのことにはふれない。
だが旧日本軍の老いた元兵士たちは、なぜ私たちはあのような時代に生きなければならなかったのかと、「昭和陸軍という残酷な組織」への恨みごとをつぶやきながら涙を流すのである。



